虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

好きなものは好き、嫌いなものは嫌い

虚木零児です。

世の中、面白いことに溢れてますね。かくいう私も久しぶりにゲームセンターに行くようになりました。楽しいです、ガンダム

おかげさまでブログの更新は滞り気味です。まあ、こちらのブログは世の中に対する不平不満が原動力なので、更新がおとなしいということは、私の精神が穏やかであるということに他ならない訳で。いいことではないでしょうか。

それはそれとして、界隈がまたぞろ騒ぎ立てていて、今度は前衛芸術に対して騒ぎ立てているそうです。当然、表現の自由愛する人達からボロクソに叩かれる訳ですが、それで出てきた被害者の擁護が「大学も謝罪している!」なのはどうかと思います。

コンテンツを鑑賞してどういう感想を抱くかは各個人の自由であります。ゴキブリと女性の性行為を見て、不快感を覚えるというのもわからなくはない。しかしながら、今回問題となるのは個人が不快感を覚えるということと、そのコンテンツは世界に存在してはいけないということをイコールで結んでしまうのはどうなのかというお話です。

なので、不快感を覚えさせたことについては謝罪しても、そのコンテンツを軸にした講義は続けていくというのは別段おかしなことではないでしょう。逆にその不快感を盾にしてコンテンツを潰そうとする圧力に対して、反発をするのも不思議なことではありません。出入り禁止になるのも無理からぬことでしょう。個人的な感想を言えば、入れば傷つく場所にまだなお立ち入ろうとする人間よりは、その人が傷つかぬように立ち入りを制限する方がまだ理屈が通ります。

しかしながら、件の人が特別頭がおかしいとは思いません。世の中には「多数がネガティブな感想を覚えるモノは排除してもよい」という思想の人が多数存在しています。嘘だと思う人もいるかも知れませんが「他人の好きなものを貶すのはやめよう」という発言を好きな人が多数おり、彼ら・彼女らの立ち居振る舞いを思い出してほしい。

これが、自分の好きなものを貶されて嫌な思いをしたくないという気持ちだけなら構いません。年一のクソゲー決定祭りみたいな非生産的な行動を取る人たちを疎んでいるならば筋も通るでしょう。しかしながら、実態はVitaの艦これ改莫迦にし、実写映画を馬鹿にし、けものフレンズ2を見下しながら生活している訳です。彼ら・彼女らの中では莫迦にすると貶すは違うのでしょうか?

結局の所、彼ら・彼女らのいう「他人の好きなものを貶すのはやめよう」は「いかなるものであっても好きな人がいるかも知れないから悪口はやめよう」などという崇高なものではなく「俺の好きなものを嫌うなんて正気を疑う。お前はまさかそんなことないよな?」という同調圧力の現れに近いと推測されます。だから、クソゲーだと人々が言うものに対しては冷淡だし、自分が気に入らないコンテンツに対してはすべてを否定してかかるのです。そのコンテンツを好きな人の目にどう映るだろうなどということには一切の興味がありません。

この言動の恐ろしいところは「多数が好ましく感じる表現に対しての悪感情は否定されてしまう」ところにあります。いつだったか、魔女と人間の子供という時間の流れが異なる存在を並べて、時間経過による関係性の変化を楽しむ娯楽が流行りましたが、それらには「他者を自分の思うままに育てる」という願望が多分に含まれており、毒親に分類される人物に関わる人々にとっては苦痛を覚えるような表現でした。だからこそ、手の人(婉曲表現)は苦言を呈したわけですが、それに対して反発が出ること出ること。手の方(敬称)がどのように受け止めていたかは存じ上げませんが、その苛烈な反発ぶりを見て気の毒な気持ちを抱いたことだけははっきりと覚えております。

文字通り「他人の好きなものを貶すヤツ」が袋叩きにあったことの何が悪いの。と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、同じことが今回の原告にも起きえていたという事実に想像を巡らせていただきたい。現在のように、不快感を覚えた事実を盾にコンテンツを潰そうとする行為ではなく、不快感を覚えた事実そのものが否定されるようになるでしょう。果たして、本当にそれが望みなのでしょうか。

超然たる存在であり、権力者である魔女が、力なき存在である子供を意のままにし、最終的に自分の望む存在に仕立て上げる。そういうストーリーラインに悪感情を抱く人がいることは認めるべきです。もし仮に、製作者にそんな含意がなかったとしても、そういう他人の感想を徒に否定するべきではありません。常日頃、ハラスメントは加害側の悪意の有無ではなく、被害側の被害感情の有無だと嘯く人ほど、ここには敏感であるべきでしょう。

あるコンテンツを好意的に受け止める人もいれば、否定的に受け止める人もいる。それぞれの意見を尊重し、双方が意見を押し付け合わない。肯定的に受け止めない人を否定する必要も無ければ、否定的に受け止める人を非難する必要もありません。ただ、人それぞれ受け止め方が違うものだと認めるだけでよいのです。

だからこそ、人々はあるコンテンツを「有害だから」と排除しようとする圧力に対して反抗的、あるいは慎重なのです。誰かの音頭に従ってコンテンツを有害とし、存在を否定することは他人の好きなものを貶すどころでは済みません。殺してしまいます。

我々は一人一人が違う人格を持った人間であり、それぞれが豊かな感受性を持つ存在であることを認識しましょう。たとえ同じコンテンツを見ても全員が同じ感想を抱くとは限りません。それは何ら不思議なことではなく、ごくごく自然なことです。好きな人が好きということを認め、嫌いな人が嫌いということを認める。ただそれだけのことをできずにもがいているのが我々なのです。