虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

謝らない、謝れない、謝っても許さない

虚木零児です。

公衆トイレに入った女児が暴行を受け、子宮を全摘する被害を負ったそうです。大変痛ましい話ですね。ニュースにならなかったのはなぜかといえば、被害を受けた少女の両親が将来を慮って表沙汰になるのを避けたのだとか。深い悲しみを覚えずにはいられません。

それはそれとして、そんな秘密の事件をブログ更新のタネにする俺という人間の浅ましいこと、浅ましいこと。人の風上にも置けないクズ野郎が偉そうな口を利いてしまい、誠に申し訳ございません

しかしながら、悪いのは俺だけなのかという話です。実際、僕がこの話を目にしたのはTwitter上です。これはつまり、被害にあった両親が意図あってひた隠しにしようとした事件をTwitterに放流した悪魔みたいな奴がいるという話じゃないですか。こいつが余計なことしなければ、俺が目にすることはなかったんですよ。「お前が黙っていれば良かった話だ」「だからといって拡散に関与するのは正当化されない」という批判があるのは重々承知の上で、最初に衆目に晒したヤツの責任は重いと思うんですよね。

で、この話の何がヒドいって、過去数度に渡って拡散された内容に類似し、その度に事実ではないと認定されてきた由緒正しき都市伝説だと言うじゃないですか。

「女児が公園のトイレで暴行を受け子宮全摘」ネットで拡散、過去にも同様の噂が

人々の恐怖心に付け込み、事実確認の取れていない話で人々の動揺を誘ってしまう形になってしまい申し開きのしようもありません

それにしても、ある時は口さがない市井の人々の間を噂話として、ある時は情報に疎い人々の間をチェーンメールとして駆け巡ってきたネタが今度はソーシャルネットワークに放流された訳で、環境が変わっても人間は大きく変わることはないのだなと変な感心をするばかりであります。

そして、こういう展開で拡散した人間に怒られが発生した時に言うことは凡そ相場が決まっております。

「よしんば事実じゃなかったとしても警戒を促せるのであればいいじゃないか」

おまえは何を言っているんだ

人々の警戒を促すエピソードが実話である必要がないという話についてはわからないでもないですが、事実でないエピソードを事実であるかのように語るという点についてはどう足掻いても悪事な訳です。ましてやその偽のエピソードを用いて人を煽り、動かそうとしているという時点で立派なデマゴーグ、あるいはその予備軍であります。到底褒められた人間性ではございません。今回は特定個人に結びつくことがなかったが故に致命的な被害は避けられましたが、これがもし特定個人の犯行であるという認識が広まってしまっていたら……

www.bbc.com

身の毛もよだつ事件に発展していたかも知れないことは頭の片隅に置いておいてもよいでしょう。

 

それにしても、人間たるもの間違えることはあるものであり、間違えた部分についてはしっかりと正した上で前を向いて進んでいくべきでしょう。であるにもかかわらず、なぜ自分の間違いを認めようとせず、自説を都合よく解釈*1した上で正しいと強弁してしまうのでしょうか。謝ったら死ぬ病などと揶揄されることもありますが、なぜ彼ら・彼女らは謝罪の先に死を見出してしまうのでしょうか。

これはどうも我々が発言者の属性を重んじてしまう習性に依るものではないかと考えることが多くなりました。例えば、童話で王様が裸だと指摘したのは子供でしたが、酔っぱらいの小汚いおっさんが同じ指摘をした場合、同じ結末に至らない可能性があるのではないでしょうか。純粋で権力に傅くことを知らない子供とアルコールによって分別を失ったおっさんが同じことを言っても、同じ意見として認識できない。

これは中学二年生の娘のペルソナを使って署名サイトを立ち上げたものの、実態は母娘の共同運営であるアカウントを「中学二年生がたった一人で」とかブチ上げてしまった記事からも感じることであります。中学二年生の少女がある出来事に対して意見を持ち、世間に訴えたいと感じた時、親の手助けを受ける、受けないは手段の違いでしかなく、その手法に問題がなければ意見の質に差はないでしょう。今回の件に関して言えば、親が代理人となってアカウントを作成し、その後も保護者として矢面に立つこと自体に問題があるとは思いません。で、あるにもかかわらず、第一報記事が「中学二年生がたった一人で」という事実に反する内容だったのはなぜなのか。読者が母娘が二人で協力してよりも、娘が一人での方を無意識に重視してしまっているのを察しているのではあるまいか。

謝罪をするためには過ちを認める必要があります。その瞬間、その人物は「過去に過ちを犯した存在」となり、過ちを犯したことのない人間から一段下の階級に甘んじることになる。その結果「ああ、あの時、間違えたヤツか」と意見を軽んじられてしまう。それに耐えられないのではないでしょうか。

これは他者から意見を軽んじられた経験は必要ありません。過ちを犯した自身が過去そういう人物を相手にしていなければ、自身の前に立つ人物にそういう属性偏重のパーソナリティを投影してしまうでしょう。まあ、オタク的に言えば「認知の歪み」というヤツです。

人が生きる以上、属性と切り離されることはできません。それでも我々はある意見を見かけた時、意見者の属性とその意見を切り離し、吟味することを目標にして努力を続けていきたいものですね。

*1:最善の相