虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

かつて来た道、やがて往く道、通るかも知れぬ道(加筆修正)

虚木零児です。

いつだったか障害者施設の職員だった男が施設の障害者たちを殺して回るという凄惨な事件があったじゃないですか。しばらくするとその事件の初公判があり、彼の証言に再び注目が集まりました。素直な心情の吐露と思しきストレートな証言の数々から読み取るに、障害者介護に従事していた男がいつからから障害者を人間と見なせなくなっていた様でした。いくつもある道の中から障害者介護の道を選び、かつては気勢を上げていた若者の変貌ぶりを思うと、なんとも言えない気持ちになります。多数の命を奪う凶行は決して許すべきではありませんが、それと同時に彼は障害者施設の中には自身の居場所を見つけることができなかったのだということをしみじみと思う訳です。

実際のところ、障害者の行動が目に余るのだという人はおる訳です。私自身、思春期の頃に障害者の男子生徒だったかが歩道橋から園児を投げ落としたというニュースを見た記憶がありますし、それに近い経験をお持ちの方もいらっしゃるのだと思います。

しかしながら、障害者らの所業・狼藉に対して、社会はある程度の寛容さを求めます。例えば、取引先に腕を噛まれようものなら小さな大事件ですが、介護施設の職員の腕に歯型があっても騒ぎ立てる人はいないと聞きます。誰かが誰かの腕に牙を立てるというのは介護施設では日常的なワンシーンなのでしょうか。個人的には誰かに腕を噛まれるなんてまっぴらごめんですが。

これは何も障害者に限った話ではなく、子供や老人なども同様です。彼らの「オイタ」には笑って許すべきだとする人は多くいます。そして、社会というものはそうあるべきなのでしょう。

とは言え、片方は規律・規範に従って生きていき、もう片方はその規律・規範を無視しているかのように振る舞うことが許される。そんな時、縛られている側の人間の中に苛立ちを覚える個体が出現するのも無理からぬことだとも思います。自身が同じことをすれば大きな問題になるのに、相手からはやられっぱなしにならなければいけないというのはなかなかに理不尽だと思います。

言いようは悪いですが、ああはなりたくないものです。優しくされたのなら優しさをもって報いたいし、誰かを傷つけるような存在ではいたくない。隣人と笑いあうのは無理にしても、若き介護者たちに牙を剥くのだけはしたくない。今、それができているとは言いがたくとも、やはりそういう理想が胸にあるわけです。

その一方、自身が老いさらばえることがあれば、彼らの比ではないほどにひどい人間になるであろう確信めいたものがあるのもまた事実です。もとよりヒステリックで偏屈で理屈をこねくりまわす攻撃的な天の邪鬼ですので、年老いてそれらの傾向が肥大化すれば碌なことにならないのは火を見るより明らかです。

諺でも「子供叱るな来た道だ。老人笑うな行く道だ」というものがある通り、自分もかつてやってきたことや、自分が将来やるであろうことをとやかく言うものではないという思想があります。この論法でいけば障害者は「いつか通るやも知れぬ道」と言ったところでしょうか。古くからの言い伝えらしく「まあ、なるほど」と思わせるだけの説得力はあり、一見すると障害者殺傷の事件とは正反対の位置にある思想のように思えるかも知れません。

しかしながら、昨今の情勢を見ているとこの手の思想も大手を振って称賛できるものではないなと思います。

人は必ず子供として生まれ、時に蝕まれて老人となります。これは必然であり、逃れ得ぬ現実であります。障害者に関しては必然とまでは言いませんが、何かのはずみで――例えば交通事故などで――自らがその道に進んでしまうことは十二分にありえることです。それだけ我々にとっても身近な存在であり、想像しやすい世界です*1

一方で、その人にとっては到底想像が及ばない道というものも存在します。ノートルダム大聖堂が炎上したというところで燃え盛る聖堂を見守りながら聖歌を歌う人々の姿が映像にて出回りましたが、あれは熱狂というものだったのでしょうか。ノートルダム大聖堂の素晴らしさも理解できぬ愚者には理解の難しい光景でした。

実のところ、大抵の人間の想像力は本当に大したことがなく、せいぜいがかつて来た道や、やがて行く道程度が限界なのだろうなと思います。子供や老人の振る舞いには寛容な人々が同程度の優しさを孤独な中年男性に向けているかと言われれば正直ノーでしょう。多くの人に取って孤独な中年男性とは決して通行することのない道なのだと言っても過言ではありません。

あの諺は自分の通った道とこれから通る道については悪し様に言わないようにしようと諭しますが、自らが通ることのないであろう道に対しては言及していません。それ故か諺を有り難がる連中であっても、自らが関わることのない問題に対しては唐突に冷淡な態度を見せることがあります。痴漢冤罪の問題では「痴漢として挙げられる男は須らく痴漢している!」と威勢のいいことを言っていた人がチケット詐欺の誤認逮捕には「警察の逮捕には慎重であってほしい」とか冷静な意見を言い出したりするのを見たことはないでしょうか。どちらも捜査の不備に起因する問題であることは同じであり、無辜の人間が罪人と扱われるのは同じです。にも関わらず、彼らは同じレイヤーの話として扱いません。おそらくは、この種の人たちは、自らのチケット売買を詐欺に利用される未来は想像できても、やってもいない痴漢として摘発される未来というのは起こりえない可能性の一つなのでしょう。自身が決して告発されないという確信ゆえか、痴漢の告発が誤ることはありえないという盲信が理由なのかは不明ではありますが。

相模原の事件に関しても同様で「自身が介護していた人たちが、同じ人間だと認識できなくなる」ことなどありえないと思えるからこそ、決して彼の言い分が決して正論などではないと豪語できるのだと思います。他方、彼の証言に同意する人々は、障害者を人物に対して暴虐な振る舞いをする存在としか見ることができず、人格を見出すことができずにいるのではないでしょうか。

かつてある歌手は国境のない世界を想像してみろと言いました。それならば、我々はいつかヒトとヒトならざるものの境界線が曖昧になった世界を想像してみるとしましょう。規範・規則を逸脱し、他者を害する存在を目にした時、我々は排除せずに暖かく仲間として迎えることができるのでしょうか。

それとも……。

*1:想像が十分に現実に即しているかは別の問題です