虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

幸せが他人から与えられると思うな

虚木零児です。

今回は割りとシリアスな話である。

docs.google.com

まあ、とりあえず読んでほしい。僕は一応、読んだ。

その上で僕が感じたことを書いていく。興味があればこちらもどうぞ。

まず、目を引いたのがこの部分だ。

そして、他者が誰かを性的であると勝手に判断し、押し付けることはあってはならないことだと考えております。

無理である。人は見たいようにしか見ないし、振る舞いたいように振る舞う。

今回の騒動にしても、これを境にしてデザインが変わったり、商品のラインナップが大きく変わったりしたとは考えにくい。アパレルブランドのラインナップがたかだか一週間かそこらで総入れ替えはそうとう難しい。

ということは、HEART CLOSETというブランド自体はほとんど変わっていない。強いて言えば今回変わったのは社長の根底にある考え方が以前と違ったかも知れない。という程度のことなので、厳密にいえば周囲の人間から黒澤女史への見方が変わったというだけに過ぎない。

言い方は悪いがただそれだけのことだ。

ただそれだけのことで、このザマである。以前からHEART CLOSETというブランドを問題視していた人がそれを言うのならまだわかる。それ見たことか、以前から私は危険だと言っていただろう。HEART CLOSETのどこが危険なのかさっぱりわからないので、言いたいことは全く理解できないが、その人なりの危機感をもっていた部分が今回の件で露呈したという言い分なのはわかる。筋は通っている。

これらの言動はどうか? もともとは「問題がない」とされていたものが今回の騒動を契機として「性加害のターゲットにさ」れるようになり、「男性かどういう目で見られるか」などと嫌味ったらしく言い募ってはいないか?

ブランド経営者の人格が疑わしいことで製品そのものにどういう影響があるというのだろう? 既製品のドレスを感じの対応の悪い店から買ったか、感じの良い店から買ったかで何が変わるというのだろう? 同様に、縫製も製造過程も何も変わらないのに、どうやら社長が性差別者で最悪らしいというだけで何が変わるというのだろう? 社長がクソだろうと、プロダクトの機能に何ら陰りはないのに、なぜここまで扱いが変化してしまうのか。

  • 「このプロダクトに金を払うことであの社長が儲かるのかと思うと反吐が出る」
  • 「ブランドに良いイメージを抱けなくなった」

今回のブランドを巡る潮流の変化にそういう本音があるのだとしても否定はしない。製品にどういう感想を抱こうが、ブランドにどういうイメージを抱こうが勝手だ。

繰り返すが、プロダクトが大きく変わったわけではないのである。それぞれの服から機能が失われたり、奪われたりといったことはおきない*1。プロダクトから機能が奪われたわけでもないのに性加害のターゲットになるのであれば、それはもともとターゲットになるものを、ここの服ならターゲットにならないとなんの根拠もなく思い込んでいたというだけのことじゃないのか。

あるいは、もともとはエロコスじゃんと思っていたのだが、ブランドに人気があって周囲の顔色が怖くて言い出すことができなかったのか。社長がみんなの思い通りのことを言わなくて不興を買ったのをいいことに宗旨変えして攻撃に転じたのかもしれない。

ブランドのイメージがあるのは理解する。だが、プロダクトの実態と異なるイメージを打ち出したところで、誰がそっくりそのまま受け止めてくれるのだろう。残業、パワハラが常態化している部署の上司が「ウチの労働環境は良好で」と言い張ったところで、実態としてハラスメントが横行している現実は消えたりしない。逆に本当にエロコスプレとは一線を画し、服によって窮屈な思いをしていない女性の自然な姿を作りつつも、性的な要素を一切感じさせない製品が存在しているのなら、いくら我々がエロコスプレという風説を流布しようと、いや、実際のプロダクトにはそういう要素なんてないから。と打ち消すことになる。

結局、みんな服なんてどれも同じもので、ブランドを見て好悪を判断しており、今回の出来事でHEART CLOSETの製品なんて着れない、着たくないと思う人が増えただけという話である。しかも、コンセプトが嫌になった訳じゃなく、ブランドにオタクの手垢がついたから、という言い訳までして。

あるブランドが特色として打ち出している要素、服飾の機能という定量的に観測できるものですら、受け取る側の期限次第でこうなる。なのに、どうして一人の人間の受け止められ方が一意に定まると思えるのか不思議でならない。

まあ、いつも服装一つで態度を変えているのの裏返しなのかもしれない。

しかし、今回は単純には肯定していけなかった事象について、単一的な面だけを切り取り肯定してしまったこと、深く反省しております。

肯定していけなかった事象とはどういう意味か。文字通りに取るなら「否定されるべき事象」である。頭に単純にはという但し書きがあることを考慮すると「よほどの理由がなければ否定されるべき事象」としたほうが正確かも知れない。

で、よほどの理由がなければ否定されるべき事象ってなんですか?

前段で"誰かを性的であると勝手に判断し押し付けることは良くない"とあるので、おそらくは「未成年に性的な魅力を感じる」という部分を指すのだろう。どんな理由があれば肯定できると思っているのか聞いてみたいが、今回はまあよい。

「勝手に判断し」声に出して読みたい日本語である。今回の出来事に関する本質、あるいは病根と言っても過言ではない。

dictionary.goo.ne.jp

  1.  他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと。また、そのさま。「そんな―は許さない」「―なことを言うな」「―に使っては困る」「―にしろ」

お前は毎回、性的か否かの判断をする度に他人の顔色を伺うつもりなのか?

先のエントリーにも書いたが、人間は刺激を受けると反応を返す装置ではない。十人を集めて、ある事象について十人全員が同じ判断をすることを期待するのは無茶というものである。逆に十一人目に前の十人と同じ判断を強要するのが正義であるとも到底思えない。他人の受け止め方は制御ができない。こちらが望むように受け止めてくれるなどと期待するだけ無駄である。

そもそも、ご自身が被害にあったという不審物からの封書やメールが彼らなりの愛情表現だったと判明した時、攻撃などと感じたことに恥じ入り、それに返報しなかったことに罪の呵責を感じたるのだろうか。その時、恐怖や苦しみは相手の感情を疑う自分自身が生み出した錯覚なのだから、それを他人の所為にするのはさっさとやめようと思えるか。相手が見てほしい姿を見出す努力をしていると自負できるか。

互いに相手の真意を探り合って、何でもかんでもいいように取ってあげようという規範のもとにでなければ、自分が見られたいように見てくれない相手に非難がましく罵りの言葉を投げつけるのは正当化されない。自分勝手な解釈で相手の行動を判断することを許さないとはつまりそういうことだ。

月曜日のたわわを愛好するのは気持ちの悪いオタクと思われたい人ばかりではないだろう。そういう事実を無視して「たわわを愛好するような奴は気持ち悪いと思われても仕方ない」とばかりにレッテルを貼り付ける連中が相手の見方に苦心しているとでも思うのか。該当コミックの胸の大きな女性に対する扱いの描写に理解を示した社長が経営するブランドを悪いオタクの玩具とし、声高化に主張するような連中が相手の善意を信じているように見えるだろうか。

気に入らない価値観を持った奴がいたら、あの手この手で責め立てて排斥する。同級生に生意気と難癖をつける。嫁の家事にケチをつける。旦那の稼ぎが悪いと働きもせずに愚痴る。彼氏の携帯を覗き見て、自分の思うような人間関係を築いていないのがわかれば喚き叫ぶ。自分と趣味の違うカップリングに攻撃を仕掛ける。

胸が大きい悩みを話しても、理解いただけず自慢だと思われてしまうこともございます。

全部全部、同じものなのだ。

www.mosumiharuto.com

共感と連帯は美徳とされるが、過剰な共感で安易に自分の核となる部分を他者に委ねるのは愚かしいことである。誰かからどうあれと望まれているかを感じ取って、それに近づくための心血を注ぐのはいずれどこかで無理が来る。人間には個体差があり、必ずしも周囲の期待に添えるとは限らない。加えて、従わんとするモノが、客観的にスコア化しようもない「人の感じ方」なのだから、その難易度たるや明言するまでもなくとんでもない難易度であることがわかるだろう。

ようはムラ社会なのだ。多くの人間は自主的にムラに判断を付託してくれ、逆らうことなく従順に振る舞う。ただ、今回のように半端な自我を持ったムラの総意に従わない人間が出てくると問題が起こる。実在する村は人々の生活基盤であり、また、共同体として所属する人々の生活に役立っている。村に生活を依存した人間は離れたくても離れられない。

だが、ムラは実体を持たない。幻想の共同体なので、多くの場合はクソの役にも立たない。なにか別の求心力が必要なのである。その一つが庇護である。私達のムラにいる限りは私達が一緒になって戦ってあげる。守ってあげる。という訳である。

さて、庇護が輝くには迫害が必要だ。外敵がなければ防衛力は意味がない。か弱き子鹿は放っておいても肉食獣の餌食となる。私達と一緒にいれば肉食獣たちの脅威に怯えなくて済むよといえば事足りる。問題はムラの庇護がなくても、外敵と渡り合える存在である。というわけで、ムラの外にいる人間がいれば、見せしめに血祭りに上げることに意味が生まれる。ムラの中にいなければこうなるぞと示す必要がある。

ちなみに、ムラの総意なんてものが明文化されているはずもないので、ムラ側の人間の気が済むまでは許されることはない。詫びたぐらいで許してはムラの権威が下がってしまうと思われたら攻撃は続いていくことになる。そうなると、許してもいいだろうという雰囲気が出てくる必要があるのだが、こんな状態で「もうそろそろいいんじゃない?」と言えるムラの中の人間が果たしてどの程度いるのだろうか。

一方で、ムラ外の人間は全く異なる価値観で動いているので、明らかにやり過ぎであったり、不当であったりという風に映る。当然、やめろという話になるし、不当だと抗議されることになる。それはムラの人間からしてみれば、異なる幻想共同体からの庇護を受けていることになるので、攻撃の理由となる。悪循環。

どうすればいいか、となるが、そんなものを他人に求めても出てくるはずがない。自分がどうしたいかである。自分は月曜日のたわわにあるような世界を目指すか、それともふしだらのレッテルを貼るムラに戻るか。そんなものは自分で決めるしかない。

個人的には今一度、自分が求めてきたものを見直してみてほしい。自分が他人からどう思われるかではない。自分がどうなりたいか。胸の大きな女性がどんなふうに生きてほしいのか。月曜日のたわわには何が描かれていて、その何に共感をしたのか。

それは余人には伺い知れない各々の心の奥にある。我々のような外野の声に惑わされることなく、それを見つめられるようになるのが僕の望みである。

*1:本当に社長が心変わりして以後のデザイン方針が変わって、あるタイミングから商品が従来路線を外れたまでいったら話は別だが