虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

明けの心と暮れの心と「べき論」

虚木零児です。

クリスマスが近づいてきましたね。皆様、どうお過ごしでしょうか。最近、界隈では「メリークリスマス」が禁止されているそうですね。宗教行事をお祝いすることもできないとか。物騒な世の中になりました。世も末だなぁ。

もっとも、このメリークリスマス禁止提案、偉い人に言わせると

「多数派のキリスト教徒が少数派に向かって宗教行事のお祝いを強いることになり、不適切なのでやめるべき」

なのだそうです。なるほど、そういうものですか。

いやしかし、目に付きますね。べき論。「差別的表現はやめるべき」「各種ハラスメントはやめるべき」「妊婦に社会は優しくするべき」云々。他にもいろいろありますし、皆さん素直に守られていることでしょう。

個々のべき論自体は素晴らしい物だと思うんですよ。あらゆる人々が安寧な人生を過ごせることは大変素晴らしいこと、出自や体質・性質などに関わらず、圧力を受けない、受けさせないのは大変意義あることです。妊婦さんのお腹の中には命が宿っている訳で、彼女を助けることはその生命も助けることになる。素晴らしい話じゃありませんか。それらが「明けの心」から生じている限りは。

まあ、べき論振り回して暴れる人ってだいたい「暮れの心」ですよね。実際。

ところで、皆さんはご存知でしょうか。「明けの心」「暮れの心」。ご存知ない。そうですか、そうでしょうね。面白い言葉ではあるんですが、どうしたことか、ネット上では知名度がない。

ググっていただくと解るんですが、阿刀田高氏の講演の中に出てきた言葉です。学校だよりにもそう書いてある。

まあ、もとを正せば天理教の説話なんですけどね。他ならぬ阿刀田高氏の著書<ことばの博物館>にそういった記述がありますから。なので、本件につきましては阿刀田高氏が凄いというよりは、この説教をした天理教の人が凄いという点は明記しておきます*1

さて、興味のある方は天理教の方の説教を聞いてもらいたい所なんですが、それだと話が進められません。なので、簡単に申し上げると「人間には~して『あげ』ようという『明け』の心と、~して『くれ』という『暮れ』の心がある。他人に何かを与えようと思っていれば気分は自ずと明るくなり、逆に他人に何かを求めてばかりいると気分が自ずと暗くなっていく」といった感じの説法であります。

なかなか上手い話ですね。明けと暮れの対比といい、言葉のチョイスといい。言ってしまえばただの洒落なんですが、そんなことを忘れさせるだけのパワーがあります。

さて、心持ちが明るくなるとか暗くなるとかは別として、実際、明けの心と暮れの心という発想はいろいろなものを見るときに役に立つ考え方ではあります。

例えばいつだったか、「ベビーカー置き場に自転車があって迷惑」みたいなノリで電車内での写真が流れてきたんですよ。ベビーカー置き場ってなんだよって感じではありますが、流れとしては自転車の人が先に電車にある車椅子などの固定スペースを使っていたら、後から来たベビーカーの人がそのスペースを使えなくて憤慨して晒し上げたという話です。人間同士、仲良くしてください。

この「ベビーカーに固定スペースを譲るべき」がいわゆる暮れの心ですよね。私のベビーカーを固定したいからその場所を空けてくれが発端ですから。もしもこの時、自転車側の人が「ベビーカーに固定スペースを譲るべき」だと考えて自転車を退けてあげていたら、それは明けの心でした。~譲るべきの文面は同じですが、心持ちが違うことわかりますかね。わかりますよね。

大体のべき論は明けの心から生じる訳です。例えば「妊婦はそれ以外が思っている以上にこういう苦しみがあるのだから、我々はそれを慮って大事にしてあげよう」という提言を簡潔に表したのが「妊婦は大事にするべき」なのであります。その提言の賛同者が妊婦さんを見かけたらできる限りの手助けをし、それが尊い行いとして称賛されるのがあるべき姿なのでしょう。

ところが、いつしかその「妊婦は大事にするべき」という提言を盾にして「あれしてくれ」「これしてくれ」と暮れの心を持ち出してくる人が現れてしまう。その結果、妊婦の人が譲られた席に座っていたら、あとから乗ってきた妊婦の人がベビーマークで威圧する、とか地獄みたいな光景が広がったりする訳です。いや、確かに「妊婦は大事にするべき」なのはわかるんですけど、妊婦を大事にするために別の妊婦が立たされたんじゃ意味がねえだろ。っていう。

冒頭のクリスマスの話題にしたってそうでキリスト教徒にとっては大事な祭事ではあるけども、他の宗教の信徒にとってはそうではないのだから「メリークリスマス」と祝祭を強制するのではなく、「ハッピーホリデー」と言い換えよう」という明けの心から出てきた提言を「なぜ、キリスト教徒でもない奴に「メリークリスマス」を強制するのか。「ハッピーホリデー」と言え」と暮れの心で振り回すから誰も得しない議論になるのです。「なるほど、そうすべきだ」と思う人達が勝手に言ってればよかった話だと思うんですよね。賛同者が多ければ広まっていったことでしょう。まあ、今となってはもうわかりようがありませんが……。

我々が人生を豊かに送るためにはするべきこと、守るべき教えがいくつもあるでしょう。その中には他人に施しを与えるようなこともいくつかあるでしょう。それらの教えを見た時、我々は「こんな施しを受けたことはない。社会は糞だ」とキレ散らかすことなく「こんな施しを与えることができているだろうか」と自省することができているのでしょうか。

今一度、見つめてみたいものですね。

 

*1:世間に広めたという点に関して言えば、阿刀田高氏の功績は計り知れませんが