虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

俺たちに一貫性はない

虚木零児です。

いつだったか、お騒がせ車椅子おじさんが飛行機に乗れる、乗れないで大変な騒ぎになったじゃないですか。往路では担がれて乗ることが許可されたのに、復路では許されなくて這いずることになった。ひどい。みたいな話で。最終的には航空会社から謝罪が出て、めでたしめでたしみたいな流れになりましたが、お騒がせおじさんについていた人がイキりちらしていたのが印象的です。

「社会を変革させる為には過激な手段でアピールするのも必要なんだ」

本当に……?

あなた、市民活動家のおじいさんが「女性専用車両は差別だ」っていいながら乗り込んだ時、猛烈にキレたりしてませんでしたか?

本当に過激なアピールが社会変革に必要だと思っているのであれば、女性専用車両の撤廃を目指すおじいさんが女性専用部分を無視して車両に乗り込む行為は相応に認めてやらなければいけない訳です。根底に流れる理論への賛否はともかく、彼らのアピール自体を否定してはいけない。

これを否定するというのならお騒がせおじさんの車椅子の事前連絡なしも当然否定しなければならなくなります。なぜなら、それは航空機運用の安全性を著しく損ねる危険な行為だからです。

車いすで飛行機に乗る時は | いすみ鉄道 社長ブログ

本当に、純粋に、ピュアに「社会変革のためには過激な手段も許される」と信じているのであれば、どちらも肯定するだろうし、「たとえ社会変革を目的としていても過激な手段は許されない」と思っているのなら、どちらも否定する訳です。

僕はどちらかと言えば後者なので、どちらのやり方にも反感を覚えます。車椅子の人が搭乗できない公共交通機関に対して反発は覚えるものの、それを暴き立てるやり方がこんな方法でいいはずがない。女性だけを隔離する車両を作るというやり方が差別という意見には同意しますが、だからといって今現在の状況を覆すために周囲の抗議も無視して乗り込むのを正義とはできない。

ところが、世間には車椅子の人は英雄視する一方で、女性専用車両に乗り込む人には嫌悪感を覚え、警察によって排除されることに安堵する人いることを観測しています。これは僕の感覚としては不思議なものです。ある時は過激なアピールを是としながら、また別の場面では過激なアピールを否とする。社会変革のための過激なアピールである点はどちらの事例も共通なのに。

まあ、おそらくはそのアピールに至る理論、理屈に対して、賛成か反対かがリアクションの変化の原因なんですよね。「車椅子の人が乗れない公共交通機関を否定するのは賛成だからお騒がせおじさんが乗り込むのは認める。けど女性専用車両のある公共交通機関は否定したくないから、おじいさん集団は否定する。これなら一応、話として筋は通りますからね。その話の是非はおいておくとして。

別にそれぞれの意見を持つこと自体は悪いことじゃないと思うんですよ。現状に問題があって改善をしなければいけないと思う人と、現状を問題視していなくて改善の必要はないと考える人に分かれることも、それらの人々が改革の為の手段に対して、是非で意見が分かれるのも人間としては当然のことだと思う。「改善には賛成だし、今のやり方がベストだ」という人もいれば、「改善には賛成するが、そのやり方には賛同しない」という人もいていい。もちろん「改善の必要はないと思うが、世間に訴え出るのは自由だ」という立場の人や、「改善の必要はなく、お前(たち)のやってることはただの違法行為だ」という意見の人もいるでしょう。

僕たちはこの意見のグラデーションを認識しなければなりません。自分の立場がどこにあるのかを正確に把握して、その上で自分の意見を表明するべきです。そもそも「社会変革には過激な手段も許される」は文面通りに解釈すると、クーデターやテロリズムすら肯定しかねない非常に過激な意見の極北です。本当に、あなたはそこにいますか?

僕たちはどう感じ、どう考えているのか。そして、それを誰に伝えたいのか。自分の中の衝動には真摯に向き合い、誠実に対応したいですね。