虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

力とは欲して手に入るものではなく、望んで手放せるものでもない

虚木零児です。

いつだったか、近所の書店でSFの棚がなくなり、BLの棚になってしまった人がTwitter上で嘆いていました。私がよく行っていた書店でもSF棚事情は芳しくなく、にわかファンながらに苦労した記憶もあるので同情いたしました。

その後、別のSFファンがその嘆きを引用して「百合ならば共存できたものを」といった内容をTweetします。別にそんなことはねえだろとは思いましたが、百合を標榜し、ハヤカワJPから発刊されている裏世界ピクニックという実例も存在するので、そういう幻想を抱く人もいるだろう程度に見ていました。ja.wikipedia.org

ところが、これを見かけたたBL愛好家の数名が「BLとは共存できないってのか!」とキレ出しました。私が厄介な生き物を見る目をしてしまったのは言うまでもありません。

■BLとSFは共存できるのか

持論を述べるならば理論的にはできると思います。銀河英雄伝説っぽい世界観、カウボーイビバップっぽい世界観でBLやれば、それはSFとBLの両立です。SFとは中世ファンタジー、ゲーム風ファンタジーといった世界観を指すジャンルの一種で、BLはミステリやラブロマンスといったストーリーによるジャンル分けとは組み合わせることができるでしょう。僕の知識が及ばないため、実際にそういう趣の作品の例が挙げられないのが無念ですが、あまり書かれていないということはあっても、書けないということはないでしょう。

でも現実として共存できなかったんですよ。とある書店においては。BLの棚がその版図を広げた結果、SFの国はとある本屋の地図から消えてしまった。国を追われた市民が滅亡を嘆き、別の市民が相手が違えば結論も違ったろうと慰めを言うのがどれほどの罪なのか。

……実際のところ、百合となら共存できるというのは、百合の側にBLほどの勢いが無いがゆえだと思います。本当に百合というジャンルが力を持ち、本屋において棚が広がるようなことがあれば、百合の棚に裏世界ピクニックが残っていれば御の字。今回同様、殆どのSF作品が書店から姿を消してしまうと思います。万が一、きれいに融和して百合SF棚ができたとしても、百合がつかないSFはその棚に残れない訳ですからね。

閑話休題、先の発言を受けてBL愛好家たちは「またBLが排斥されている」といった趣旨で怒り狂い、盛り上がっていきました。なぜ、自分たちは排斥された被害者だという認識でいられるのか、個人的には本当によくわかりませんでした。

もう一度言いますが、SFの棚がBLに潰されてなくなったんですよ。

■力を持つということ

今回の書店の限定的な局面においては、間違いなくBLの方が立場が上。売上が原因なのか店員の投資的判断なのか、詳細はわかりませんが販売スペースを拡大したのがBLで割を食ったのがSFです。今回の件に関していえばBLがSFを排斥したのであって、SFから排斥された訳ではありません。

そういう経緯を知らなかったのならワードに反応してという可能性もあります*1が、書店からの棚消失の経緯を引用した上での「百合となら共存できたものを」というTweetを読んで、BLが排斥されていると読むのは被害者意識が過ぎるのではないですか。

僕の観測範囲の話にはなりますがSFというジャンル自体は決して勢いのあるものではなく、一年経つとファンの平均年齢が1つ上がる*2といった自虐ともつかないネタを耳にする始末です。実際、SFエリアが小さい、あるいは無い本屋もそれなりにあり、対するBLがどの店でもある程度のエリアが確保されている印象があるのとは真逆と言えます。

ここについては異論がなくて、SFが棚からなくなって、できたスペースにBLが入り込んできた。というエピソード自体を疑うよりも先に百合ならば共存できた(=BLとは共存できない)という発言を問題に上げていたのではないですか。

もちろん、BL愛好家たちが望んでSFを排除した訳ではないし、SFを排斥したいという意思を持っていたとも思いません。その店の店員にBL愛好家がいて私利私欲でSFの棚を奪ったともなれば話は別ですが、そんな話は出ていません。BLの愛好家とSFの愛好家という異なる存在がいて、それぞれがそれぞれの好きな生活を送る中で、結果として書店がSFの棚をBLに明け渡すという判断をした。というだけのことです。BLに勢いがなければこんなことにならなかったかも知れないし、SFが棚を残すに足るだけの実績があれば縮小で終わっていたかも知れない。

ただ、現実にはSFの棚が潰れて、BLの棚になった。BLというジャンルがSFというジャンルを駆逐し、棚を奪って共存の目をなくしてしまった。この状況において共存のために必要なのはBL側の譲歩であって、SF側の意識改革ではないと思います。

まあ、個人的には譲歩を求めるつもりもないし、SF愛好者に求める権利があるとも思いませんが。

■自覚

女性から見た男性が持っている力について無自覚であるという批判は見かけますが、今回の構図を見るに、自分の持つ力について十分自覚的な人間がどれほどいるのか疑問を覚えます。

先の記事でも少し触れましたが、Vtuberと警察署とのコラボ動画はフェミニスト議員連盟からの抗議を発端として削除されました。その後、Vtuber所属事務所の社長によって事の経緯が明らかになると、該当Vtuberのファンのみならず、Vtuberという文化・ジャンルの愛好者、抗議申立の内容に疑問を覚える人たちから異議が唱えられ、署名運動にまで発展し、6万人にも登る署名が集まりました。

その頃になると、警察に抗議した議員は「地方議員にそんな力があると思いますか?」とか弱さをアピールし始めました。彼女自身が抗議を行った結果、警察が実際に動画を削除するに至ったにも関わらず、抗議と削除の間に関連がないと確信できた理由とは何なのでしょうか。

決定の権限は警察にあるとの意見もありました。最終的に削除を決定したことの是非は警察に問われるべきでしょう。ならば、同様に警察に削除意思を決定づけさせた抗議の是非は議連に問われるというのも当然ではないでしょうか。

力は誰かから受け取ってその瞬間から振るえるようなモノではなく、周囲との関係や環境によって備わるモノ。それも環境の変化や権力基盤の動きによってはあちらこちらへ動き回るモノでしょう。オタサーの姫が姫として振る舞えるのはオタサーの構成員たちが姫からの覚えを良くしようとおもねてくるからであって、その影響力が及ばない場所、相手ではそこまでの扱いは受けられない。

であれば同様に、地方議員もまた影響力を行使できる環境においては権力者として扱われるのはなんら不当なことではなく、自身がより大きな権力者たちに求めてきた振る舞い――例えば、経緯の説明なり、権力の自覚なり――をが求められるのはごく自然のことのように思えるのですが。

たとえ望まず手に入れてしまった力なのだとしても。そういう話ではないですか。

*1:女性同士の恋愛が百合と男性同士がBLが対比されているのは推測できる

*2:新規の流入が少なく顔ぶれが変わらない。離れる人も少ないという自負も多少あるかも