虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

毒にしかならないガイドライン

虚木零児です。

令和3年3月「男女共同参画社会の実現をめざす表現ガイドライン」が大阪府より発行されました。下記のサイトよりご確認をいただけます。

www.pref.osaka.lg.jp

これが我々に何を示してくれているのか本気でわからないので、少しまとめてみることにしました。

■いつもって何?

2ページ目、「(1)男女いずれかに偏っていませんか」においてはチェック項目として以下の記述があります。

男性または女性のみがいつも主役

続いて、3ページ目、「(2)性別によってイメージを固定化していませんか」には以下の記述があります。

いつも女性の服は赤やピンク、男性の服は青や黒

いつも女性はスカートやエプロン、男性はスーツにネクタイ姿

4ページ目、「(3)男女が対等な関係になっていますか」。

いつも指示をしたり命令をしたりする側は男性、指示や命令を受ける側は女性

いつも教える側は男性、教えられる側は女性

5ページ目、「(4)性別によって役割を固定化していませんか」。

家庭を描くとき、いつも外で働くのは男性、家にいるのは女性

食事の支度、買い物など家事を担う存在はいつも女性

車などの運転や、機械操作、力仕事などを担うのはいつも男性

家庭内で世話をされる側として表現されているのはいつも男性

医師、弁護士、議員、消防士、運転手、警備員はいつも男性、看護師、受付、保育士、客室乗務員はいつも女性

いつもいつもいつもいつも……。わざわざこんなにつけるのも、女性が赤やピンクを着ていることが問題なのではなく、赤やピンクを着るものだと印象づけるのが問題なのだと言いたいからなのでしょう。

で、実際どれぐらいで印象づくものなんですかね?

このガイドラインは皆さんの表現を強制するものではありません*1と書いているのも、さもありなんといったところで、頻度が高くならないように注意せよとは言うものの、具体的な指針については何ら触れていません。

前回使用した絵図では男女参加比が2:3だったので、今回は3:2にしてバランスを取れという話でしょうか? それとも、他の会社が男女参加比が2:3の図式なので、ウチは3:2の図にしてバランスを取るべきという話ですか?

「いつも」「いつも」と記述することで、見渡したときに偏りが出ているんだ。という風を装ってはいますが、どうサンプルを取ってどういう比率だと偏って見えるといった記載がないにも関わらず、ただ明確に偏りは良くないと記述してある。こんな目指すべき姿が明記されていないガイドラインなど毒にはなっても、薬には成り得ません。

各個人の観測範囲内で「偏っている!」と声を荒げられても、それが妥当なのか否かの判断は各々の内心に依ってしまう。結局、抗議者の感情を補強する方向に作用しても、否定する方向には作用しないからです。

そもそも、作成側が「いつも」をさほど重視していないのは内容を読めば明らかで、男女の偏りを指摘する1~4の項目において、改善前の例はすべて「いらすとや」の素材を使用しているのに対し、改善後の例には自前のものを含む、別の素材集から持ってきた素材を混ぜています。「悪い側の例はいつも同じタッチの絵だな」と思った人が「この絵を書くヤツは男女の性別役割分担意識を持っているんだな」に繋がるかも知れないとは思わなかったんですか?

大げさに固定観念の構築が動向と言う割には結局、その程度の覚悟なのかとがっかりしました。

「いつも男が仕事に出ている絵図ばかりだから、女性が家庭に入る固定観念が構築され、社会進出が遅れるのだ」なんてはっきり言って人を馬鹿にし過ぎだと思いますよ。

■個人を見ましょう?

偏りがあるのは問題だろう。という方もいらっしゃるでしょうが、厳密に言えば問題のある偏りもある、というのが正確に思われます。日本の看護師を数で見た時、男性は10%程度で、90%は女性なのだそうです。明らかに偏りがあると言えるでしょう。結局、原因は何であるかです。女性にとっても男性にとっても魅力ある現場であるはずなのに男性が極端に少ないのならその理由は? いや、男性から見た時、看護師という職業につくのは魅力がないのだ、とするならその理由は? 逆に、女性から見た時だけ看護師という職に魅力が感じられるのはなぜ?

本気で「看護師として女性ばかりが描かれるから男性が入ってこないのだ」と思っているんですか?

なら、まず最初に現実に多数を占める女性の看護師をどうするべきなのか考えてみましょうか。減らしたいなら、やめてもらうのが手っ取り早いですよね?

彼女らが自らの意思で選んだ看護師としての道を、世の男性たちのために諦めてもらうっていうのが共同参画に必要な思考ですか。問題になっているのって結果じゃなくて、そこに至る過程の話だと思うんですけど。

女性の衣服が赤やピンクに偏ったことを問題視するからおかしくなる。ある集団の女性に赤やピンクを好む人が多い傾向があった場合、何か問題があるのでしょうか。赤やピンクの服を着た男の子を女の子が「それは女の子の色なんだよ!」と糾弾した時、問題なのは色を男女に分けてしまう固定観念を女の子が持っていることですか? 逆に男の子に「黒や青を着るなんてダメだよ!」って言えばOKなんですか? 本当に?

そうやって、自分の気に入らない結果にケチを付けて、排除しよう、全部自分のままに思い通りに支配しようとする幼稚な心に、偏りが何だとお墨付きを与えることが本当に個人として尊重される社会づくりに貢献するのか疑問を覚えるのですが。

本当に集団としての統制を夢見るばかりに個人なんて見ていないよなというのは、6ページ目、「(5)興味を引くためだけに、女性を使っていませんか」にある、

女性の姿を使う場合は、女性の外見(若さや性的側面など)のみを切り離していませんか

からも読み取れます。これってつまり「若くて性的に魅力的じゃなければ、その人を採用しなかった」と思っていないと出てこないですよね。赤の他人を捕まえて「見た目がいいだけの若い女」と断じるなんて何様のつもりだろうと思いますけど。

結局、求められているのは「自分と考えの異なる他者」をどれだけ認められるかという話であって、新しいあるべき姿を示すことじゃないと思いますが。

*1:1ページ目、1 表現ガイドラインの作成にあたって より