虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

俺たちにその資格はあるか

虚木零児です。

池袋で老人による大きな事故が発生し、幼い子どもとその母親が命を落としてしまいました。咎のない母子が命を落としたというのは非常にやるせなく、誠に痛ましい出来事であると認識しております。

その後、品川区でも老人の運転する車が男性二人とぶつかった挙げ句、ポールにぶつかって止まるという事故が発生しています。こちらは、男性二人がいずれも軽傷で済んだのは不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

この二件の事故から、年寄りの車免許返納の問題が巷の話題として再燃しました。振り返ってみれば、昔からペダル操作を誤ってコンビニに突っ込んだとか、アクセル踏み込み過ぎてフェンス突き破ったとか、そういう話題は事欠きませんでした。まだ若い母子が亡くなるという、人死のラインを超えたことで再びスポットライトが当たるのは当然といえば当然の話であります。

改めて言うまでもありませんが、人間は加齢によって認知能力や判断速度、運動能力などが低下していきます。咄嗟のブレーキが遅くなる、ハンドリングが遅くなる、あるいは足が思うように動かずにペダルを誤って踏み込む。そういった、人間が自動車を運転することの危険性は明白です。

しかしながら、老人が身を置く住環境の中には、自家用車があることが前提となっている距離感の場所があることもまた事実ではあります。高齢者の運転は危険だと言ったところで、その高齢者は高齢者で車を取り上げられると、冗談抜きで何もできなくなるというジレンマがあり、議論が紛糾するポイントであります。

とは言うものの、原則的に車を運転できるだけの技量・能力・知識を有さない人間に対しては運転免許自体を出すべきではありません。本来ならば禁止されている車両の運転を一定以上の能力を有していると確認できた人間に対して許可するというのが免許制度の趣旨であるはずで、その能力を持たない人間が車両を運転することを防ぐ意味でもその判断は厳格であることが求められます。今回は高齢者、あるときはてんかんの患者などが槍玉に挙げられますが、彼らの事情はどうあれ、運転するに不適格な要素があるのであれば運転を許可すべきではありません。

他方、実社会に目を向けてみると、運転免許制度自体がここまで厳密に運用されているかについては疑問が残ります。信号が赤になってもなお交差点に突入する人、横断者がいる交差点で右折で強引に突入して対向車線に立ち往生してしまう人など、事故に至らなかったものの問題行動を起こしている人たちは日常的に見られます。SNSでは数度の自損事故による廃車を経験したドライバーのポエムが流れてくることもありました。彼ら・彼女らに運転の許可が降りたこと自体が不思議なことであります。

 

そもそも、自動車教習所でも多少の問題行動は注意だけで済まされ、習熟が不十分であってもカリキュラムが進み、平素ミスを起こしていても試験の際にミスをしなければパスできてしまう等、恐怖心すら覚える状況だったことを記憶しています。私は自身の能力に欠格を感じて自主的にドロップアウトしましたが、その判断をせずに車道に出ている運転者も少なからずいることでしょう。車両を運転できるだけの能力がある人間にだけ免状を出す機能を有しているとは到底思いません。

免許制の根本に立ち返れば運転するだけの能力を失ったと感じれば免許は返納すべきであり、そこに高齢者であることは必要な条件ではありません。たとえ本人が20代であろうとも本人が限界を感じるならば返納して然るべきであります。

もちろん、自己診断だけでは肯定感の強い人が返納に来ませんので、第三者の視点から不適当と見做された人間からは取り上げる必要もあるでしょう。本来ならば定期的に不適格者をチェックする機構があって然るべきであり、過去はどうあれその時点で運転免許を有するに値しない人物からは取り上げられるのが道理です。日本でも運転免許には期限が設けられており、更新の手続きが必要です。ここで能力低下などが見受けられれば取り上げるのでしょう。現状、そうなっていないというのであれば、改善すべき事態であると私は考えます。

池袋の事故ではドライバーが高齢者であったこと、一般に高齢者は認知や運動能力の低下が見受けられることなどから、高齢者に属している人に対する運転免許の是非に焦点が当たりました。高齢者の能力チェックなどの厳格化なども膾炙しています。

ですが、本来なら運転免許を交付されるのは一定以上の能力を有する人間に限られ、高齢者は能力が衰えていくことが一般的であるからこそ、要求を満たさずに資格を失う比率が上がるのが筋であり、正しい順番のはずです。衰える勢いが早くなることを鑑みてチェックの期間を短縮する程度ならまだしも、最初から高齢者を狙い撃ちにしたチェック機構を組み込むことは運用上、不適切ではないでしょうか。

我々はこの問題を老人たちの問題だと矮小化していいのでしょうか。社会における車の在り方、車との付き合い方についての問題だと受け止めなければいけないのではないでしょうか。今回の事故を契機として、いつか車に乗れなくなるという前提で社会の構成を見直してみてもいいのかも知れません。