虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

創作物だけで人格が形成されている訳ないだろう、という話

虚木零児です。

日に日に不快なものは社会から抹殺したいという意識を剥き出しにする人が増えてきました。

times.abema.tv

“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う

天皇陛下の写真を燃やすのはまずいんじゃないか、これに自治体が金を出すのかっていう話で悶着があった気がしたんですけど、俺の記憶違いですかね。儲からなければクリエイターも作らなかった筈なのに自治体が金を出してしまったばっかりに……。

……これが本当に表現規制に反対する人間の言動か?

党是として「表現規制に反対です」というポーズを取らなければいけない以上、児童ポルノ的な作品を「規制したい」とは言えないので「市場から排除したい」に言い換えただけでは? もしかして、規制じゃなくて排除ならいいだろと思ってたりするんでしょうか。いいわけねえだろ。

まあ、それにしても人々が創作物に寄せる期待の大きさというものには、もはやドン引きすら覚えてしまいます。色々と口先では規制について否定して見せていますが、実際はクリエイターが作らないように働きかけている訳ですから、児童ポルノ的な作品が存在を許すつもりはない。排除の理由として児童の保護を引き合いに出すということは、児童ポルノ的な作品の存在が許される社会は児童ポルノを許容する方向に向かうのだと思っていなければ不自然な訳です。

実在の児童が被害にあっている児童ポルノと、児童という属性付けをされたキャラが被害にあっている児童ポルノ的な作品というのは、被害の有無という点において大きな違いがある。というのは、表現規制派に対する常套句ですが、厳然たる事実であります。だからこそ、表現規制したい人々は「被害が出てからでは遅いのだ。こういう表現が存在することで、児童ポルノが悪いものと認識されなくなるのだ」と抗弁する*1

創作物に影響を受ける人物が一定数いるというのは有名な話で、欧米の有名選手の中に「キャプテン翼」に憧れてサッカーの道に入った人もいる。というのはこの手の話題に頻出します(俺は何回この話するんだ……)。

つまり、「児童ポルノ的な作品が生み出される→消費者の手に渡る→消費者が影響を受けて児童ポルノに走る→被害が広がる」を食い止める、という建て付けで児童ポルノ的な作品を排除しようとしている。と推測できる訳ですね。

本気でそう信じているんなら、まず「児童ポルノ的な作品を悪とする」作品の頒布から始めてみてはいかがですか。

消費者が無条件で影響を受けて思想が広がるんなら、児童ポルノ許さない的な作品を頒布すれば社会合意とやらも形成されるでしょう。現に児童ポルノ的な作品が児童ポルノを許容するような価値観の形成に機能しているらしいですからね。「男性に都合のいい女性像」がポルノ作品によって形成されているんだから「共産党に都合のいい人物像」を形作る作品を頒布すれば支持率爆上がり間違いなし。

でも、実際はそうなっていない。

創作物に影響を受ける人がいるのは事実だとしても、それは無条件ではなく、創作物を読んだ人がどういう人物で、どう受け止めたかによって影響の程度も変わってくる。共産党に懐疑的な人たちは都合のいい人物を見た所で「こんなヤツいるか?」とか「プロパガンダ来たな」ぐらいに思われて終わりということも十分あり得る。

本音のところではそのあたりがわかっているから、いざという所で創作物なんかに頼らずに、児童を保護するという金科玉条を振りかざして黙らせようとする。

結局の所、重要なのは個人の意思であって、どんな創作物が出回っているかや、社会の雰囲気がどうこうとかは大した問題ではないのだと思います。

街で見かけた少女の絵を書くことが肖像権だの以外にどういう問題を秘めているのかという気もしますが、マタイの福音書の一節を引用すれば、

しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

とありますから、街で見かけた少女がエロかったという情欲を抱くのは姦淫と言って差し支えないでしょう。ご本人に自覚があるかは知りませんが、キリスト教的な規範の影響を色濃い様に見受けられる。

聖書などから読み取る限り、キリスト教は性についてはかなり保守的で古くは「性交とは子を成すための行為」として定義されており、子を成さない性交は悪しき行為に分類されます。自慰行為を指すオナニーの語源となったオナンという男がいるのですが、彼は神の意に反し膣外に射精をしたことで神に処刑されてしまったといいます。精子を無駄撃ちしただけで処刑なんだから子を成す準備のできていない幼子との性行為なんて以ての外。児童ポルノなんて許される訳ありません。そういう意味では、児童ポルノ的な作品を大嫌いな人との親和性は高い。

ちなみにこの理論に基づくと、男同士で性行為にふければ当然、処刑ですけどね。なにせ、子供ができませんからね。

現在のキリスト教の宗派などについては詳しくないので、避妊などの取り扱いなどで分類できるのかも知れません。自慰行為を禁止しているか、とか、同性愛を認めているか。とか、詳しく見ていくことで色々と話しが細分化されることもあるでしょう。

それを踏まえた上でこちらを御覧ください。

www.bbc.com

カトリック教会がどの程度、厳しい規律を課しているのかは前述の通りわからないわけですが、ただ「児童を性的に虐待してもよい」と言っていることはないのではと思うわけです。Wikipediaあたりだと「カトリックでは不淫(性的に禁欲すること)が教会内の公的な立場の前提と考えられていた」とあるんですけど、今は違うんでしょうか。

これがもし、近代の仏カトリック教会においても「不淫・禁欲」が美徳とされ、姦淫が罪とされているのだとすると、おかしなことになるわけです。児童の性的虐待は全く禁欲的ではないですし、先も言った通り、子を成すためでない性的な行為なんてものはご法度であるはずで、児童ポルノの存在を供するような環境では全くない。児童ポルノ的な作品に対しては排除を言い出してもおかしくない立場と言っても過言ではなく、実際キリスト教圏から日本のマンガに対する風当たりも強い。

そういう環境に身をおいている人間が児童性虐待に手を染めているのは一体どういうことなんですか?

これって、児童ポルノ、あるいは児童ポルノ的な描写の存在が人を児童性虐待に駆り立てるのではなく、児童性虐待衝動を有する人はどこにでもいて、その中から現実の行動に移す人が出てくるという話なんじゃあないんですか?

よく言われている話なんですが、現実の行動に移す人を許せないって話に理解を示さない人は少ないんですよ。実際、児童ポルノの所持禁止にまで反対している人はそう多くないし、反対している人も運用面に懸念を抱いている人が多い*2。ところが、その規制を児童ポルノ的な作品にまで伸ばそうとする人――というのは、おそらく存在しなくて、的な作品と児童ポルノを区別していない人――たちは、児童ポルノ的な作品に対する擁護を児童ポルノへの擁護だと置き換えてしまう。児童を守ろうとする自分たちの敵だと判断し、意にそぐわない人間を全員児童の敵として処罰をしようとする。

冷静に考えてほしいんですけど、我々が掣肘しなければならないのは児童性虐待衝動を有していて、かつ、現実の行動に移す人じゃないんですか?

衝動を持つこと自体も問題ということにします? 本当に? 子供をなせない相手に性愛を抱くことを病気とした時代にまで巻き戻したいんですか?

子供に性愛を抱いてしまう人がいて、子供というのは大人のような判断を有さないので一人の人間として恋愛することはできない。保護を必要とするか弱き者であるがゆえに、感情を向けてくる大人に影響を受けてノーと言えない可能性が高い、という言い分であるなら「児童への性愛は行動に移しては行けないのだ」という話に落ち着くはずで、異常者だから処分しろというのは飛躍だと思いますが。

 

色々書きましたが、気持ちはわかる気もしますよ。酒なんてものが表でも裏でも流通しなくなれば、飲酒運転も女性が泥酔させられたりといった事件も起きなくなるのに*3。なまじ酒が市民権を得ているばっかりにこのザマですから、児童ポルノ的な作品に同じように居座られても困りますよね。

ただまあ、多種多様な人々が生きている限り、自分の都合ばかりが通るわけではないので、そのあたりは折り合いつけて生きていきましょうよ。お互いに。

*1:念の為、言っておくと「漫画キャラ・アニメキャラに人権がないって言うんですか!?」って吠えた人もいました

*2:例えば自分の子供写真も児童ポルノに含まれるのか? とか

*3:やるなら禁酒法の二の舞を踏まぬよう、世界から抹消する勢いでやりましょう。俺はやらなくていいと思うけど