虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

自分の首を自分で締める時

虚木零児です。

なんだかんだで表現の不自由展が開催されるとのことで、まあ、一応は表現の自由という体裁も保たれたのではないでしょうか。政治的立場はどうあれ、自由な発言を行えるというのが理想ではあります。

 いや、まあ、この現況を見るとどんな顔をすればいいのかわかりませんが。

「展示会自体が商業的な側面があって、SNSに拡散されて来場者数に影響が出るから」という話であればまだ理解できる部分ではあります。でも、お話ぶりを見る限り「そもそもSNSへの投稿は禁止だったのに、拡散されて今回の事態につながった」かのような言動をしているます。それじゃ「見られたくない人に見られないように細々とやろうとしていた」のに「SNSで見られてしまった」と言っているに等しいじゃないですか。

アートの作者が誤読・誤解を恐れてSNSで広めないでほしい、というのなら理解できますが、作者に同意を得ていたというお話ですから、今回のSNS投稿の禁止の主体は全く別の存在であることが仄めかされています。これが知事大村なのか、愛知県という組織なのか、それとも監督なのかは定かではありません。ただ、口ぶりから察するに大村氏ご本人だったのかもと邪推はしています。

そもそも、開催側御自ら、衆目につかないように潜るというのは自主規制と呼ぶのではないかと思いますがその辺りどうなんでしょう。成人向け作品は子供が立ち入らないように制限をかけたエリアでしか販売してはならないと決まっておりますが、SNSで大衆の目に触れないようにするというのがソレとどう違うのかよくわかりません。エロとグロは確実に制限を受けているのに、自身を似たようなポジションに落とし込んで「表現の不自由」とか言われても。

漏れ聞いたところによると左翼的な不自由に偏っていて、例えば戦車が掲載されていた働く乗り物の本が絶版されたという様な左翼的には良しとされる不自由がなかったとか。体制側からの規制には反対するけども、市民側からの要求による規制には賛成することもあるというのがポジションのようにも見えてきます。

そうすれば、SNS拡散の禁止も辻褄が合うんですね。昭和天皇御真影が焼却されるのに反発するのは多くが市井の民であり、SNS上で何事だって憤るのも一般の人です。ハレーションの起点は某かの有名人という可能性はあるものの、伝播させるのは一般人であることに違いはありません。その一般人が「けしからん」とする表現を規制するのは正義であり、不自由展が中止に追い込まれるのもまた正義ということになります。

弁護士だ、表現の自由戦士だといった連中は「そもそも、いかなる表現も批判に晒されることはあれ、抑制されることがあってはならない」というポジションから、市民からのテロルを匂わせる発言を批判し、それに屈した主催を批判している訳です。たとえ、不快な表現であっても発表を抑止してはならないとでも言いますか。彼らは表現が存在しない・できないことに対しては厳しい目を向けますが、一方でその表現が万人から受け入れられるかには無頓着です。万人から受け入れられない表現があることは認めつつも、万人に受け入れられないことを理由に規制されることがあってはならないというのが彼らの信条であるからです。

一方で、今回の表現の不自由展に纏わるお話では根底に「万人に受けいられない表現、悪い表現は存在してはならない」という思想が見え隠れします。戦車や戦闘機と言った戦争を連想させる乗り物を追いやったり、エロ・グロ広告について野放しと表現してみたりするのも存在が許される表現と許されない表現の二種が存在するからという発想に基づいているように思えてなりません。

そもそもの冒頭に出てきたSNSでの拡散禁止にしてもそうで、SNS上に広まり、表現の内容、あるいはやり方に対して批判が集まることもあったでしょう。しかしながら、それは展示会を中止しなければいけない理由にはならないはずです。表現の不自由展が一時中止に追い込まれたのも直接的な原因は放火を匂わせるような脅迫であり、安全の確保ができないからだったはずです。その脅迫犯に情報が行き届いた一因がSNS上でのハレーションであることを認めたとしても、やはり原因は暴力を匂わせて表現撤廃を要求する輩であり、ハレーションが発生しないよう規制すべきだとは思えません。そもそもハレーションを抑制したいなら、マスメディアを入れるべきじゃないっていうのも妥当な話だと思います。結局、ハレーション自体は期待していたものの、自分のとって望ましい人々に向けて発信したかったのに、失敗したから抑制に転じたんじゃないの。と邪推してしまいます。

やはり、いかなる表現であろうとも抑止・規制されるべきではないし、いかなる反論・反駁も禁止されてはならないのでしょう。それだけ表現が自由になれば、議論によって完膚なきまでに叩きのめされ、二の句が継げなくなることもあるでしょうが、自由とはもともとそういう側面を持っているのだと思います。我々には発言の自由が与えられてはいるものの、その発言内容を保護するものではありません。間違った発言者に間違いの烙印が押すことは表現の自由を毀損するものではなく、間違いの烙印が押された発言者を軽んじる我々が表現の自由を損ねているのでしょう。

今のカギカッコ付きの「表現の自由」が趨勢を占めることが無いように祈るばかりであります。