虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

価値観に縛られるのが好きな皆さん

虚木零児です。

また、リベラリズムという差別意識をむき出しにした人が吠えていました。

こういうタイプの人達は、オタクからポリコレがウザがられる理由が本当にわからないんだろうな。と思います。

縛るということ

ところで、皆さん縛りプレイってご存知でしょうか。ゲームの実況動画とかでよく見かけるカテゴリーで、ゲームのルールに加えてプレイヤー側が独自のルールを加えてプレイすることです。

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実用日本語辞典なるものには掲載されるほどの言葉になったんだと思うと、何だか感慨深いものがあります。我々も大事にしていきましょう。辞書。

さて、私の方はYoutubeで最近、セレクトボタン(メニュー)未使用プレイの動画がオススメされるようになりました。興味がないので動画は見てないんですが、多分これも縛りプレイなんでしょう。通常使うはずのメニューを使用しないことで、どの程度難易度が上がるのかは一切、不明ですが、何かしらの影響はあるのでしょう。

縛りと言われると、何かの使用を禁止するというのが思いつきがちではないでしょうか。小学館のデジタル大辞典によれば縛るには第一項として「動きが取れないようにひもや縄などで巻きつける」の意味があって、第二項に「自由にできないように制限する」という意味があります。

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もともとは紐や縄でまとめる、束ねるいう意味があり、罪人などの自由を奪うために手足を束ねていたのでしょう。そこから、紐や縄を使わず、まとめたり束ねたりしていなくても自由を制限していれば、"縛る"と言うようになったのでしょう。ですから、先程例に上げたメニューを自由に開けないように制限するというのは、まさしく縛りと言って差し支えないのではないでしょうか。

やらなければいけないという"縛り"

ゲームにおける縛りには「使わない」以外にもう一つ「使わなければならない」という縛りがあります。例えば以下のような場合ですね。

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こちらの方はポケモンというゲームにおいて、比較的評価の低いポケモンであるザマゼンタを絶対に選出するという「縛り」を掲げておられます。

ざっくり説明すると、ポケモンは事前に準備していた六体の中から限られた数――シングルは三体、ダブルは四体――を選出して、実際に戦わせるというゲームです。ポケモンはタイプを持ち、受ける技と自身のタイプによって効果が大きく変動するという相性関係があります。選出したポケモン次第では相手の繰り出したポケモン一体に対して、全員が不利な状況に陥るということも十二分に起こりえるので、プレイヤーは対戦前に開示された情報から自分のポケモン選出を慎重に決定します。

そこにザマゼンタを絶対に含めるというのは、例えばザマゼンタが優位に立てるポケモンが見当たらない時などに枷となります。出しても活躍は望めないが、自己で定めたルールとして選出はしなければならない……というジレンマが生じることはおわかりいただけるでしょうか。

セレクトボタン縛りが「使えるはずのものが使えない」方式だとすれば、こちらのザマゼンタ縛りは「使わなくていいはずのもを使わなくてはいけない」方式です。片方は使用して、もう片方は使用しないと反対のことをやっていますが、どちらの場合であっても「自由にできないように制限されている」と我々は感じているのです。

自由ってわかります?

それぞれの縛りがどの程度厳しいものかは人によって変わるとは思います。とはいえ、苦しみが想像しやすいのは使えない式の縛りではないでしょうか。例えば、利き腕を縛って生活してくださいと言われると、かなりの苦行だなと感じます。多くの人は手を使うときに利き腕に頼っていて、逆の腕では器用な行動ができません。持っているものを失うのは被害が容易に想像しやすく、自由を奪われている実感を抱きやすい。

逆に利き腕を絶対に使って生活してください、はできそうな気がします。普段からしていることですからね。

ただ、実際にやると普段は無意識で逆の腕でやっている作業を、利き腕でやらないといけないという不自由さを感じるでしょう。意識していないことなのでいざ自分が動こうとしたときに、逆の腕を使ってしまって気づくことになります。例えば電車の吊り革を持つ時、いつもは利き腕でスマホを見ながらつり革を掴んでいる人は、意識せずに逆の腕を挙げてしまい、縛りルールに違反してしまうでしょう。

我々の考える自由っていうのは「してもいいし、しなくてもいい」ことなんですよ。「してはならない」や「しなくてはならない」は"縛り"になってしまう。

これはポリコレが嫌われる原因の一つで、彼ら彼女らはすぐに「しなくてはならない」と言い出します。何度だっていいますが「女性型のロボットが家事に従事するのは、『家事は女性の仕事』という固定観念を補強するからダメ」と意見することは「女性が家事に従事する姿を描いてはならない」とほぼ同義です。もしも「描いてはならないとは言ったつもりはない」のだとしたら、言い過ぎなんですよ。「この絵を見た人は『家事は女性の仕事』と感じるかも知れないが、それは誤った認識である」ぐらいに抑えておかなければいけません。

縛りと偏りは違う

そして、もう一つ。見落とされがちなことですが、選択に自由があることは必ずしも結果が均等になることを意味しません。

以下の動画は昨年末に行われた星のカービィ スーパーデラックスのリアルタイムアタックのレース動画です。四人の走者(プレイヤーの意)が、それぞれプレイして誰が一番早くにクリア条件を満たせるかを競う動画になっています。

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星のカービスーパーデラックスには19種類のコピー能力と、5種類の使い捨て型コピー能力が存在します。それぞれの能力に対応した敵を吸い込み、飲み込む。あるいは、触れるだけでコピー能力を得られるコピーの素に触るという条件を満たす必要があるため、いつでも自由自在というわけには行きませんが、それでもどの能力を使用するかはプレイヤーの手に委ねられています。

ですが、先に引用したRTAに置いてはサムネイル画像から分かる通り、四人のプレイヤーが同じ能力を使っています。制限付きとはいえ自由に選択可能なはずのコピー能力が一つに偏ってしまうのは、RTAというルールにおいてジェットという能力が果たす役割が重いことに起因します。ゲームをいち早くクリアするために求められている要素を兼ね備えているのがジェットだから、走者たちはジェットを選択しています。

それは誰に強制された訳でもなく、目的に対する手段としてジェットを選んでいると見ることもできますし、他の人達がジェットを選んでいる以上、対抗するためにはジェットを選ばざるを得ないという風に見ることもできるでしょう。

それぞれの走者が「早く走るためにジェットを選んでいるのだ」と感じるか、「他の人に負けないためにジェットを選ばされているのだ」と感じるかは、それぞれ人に依るところだとは思いますが、ポリコレ教徒は後者だと思い込み、それ自体を批判しようとする訳です。

冒頭に引用した人物は、上記のTweetを続けて「見目麗しい女性キャラクターしか画面に出てこないのは、画一的な価値観に縛られている結果」なのだと主張し、何かしらの圧力によって多様な女性キャラクターが登場するのが阻害されているのだと考えていらっしゃるのでしょう。

一方で、ある種の人たちにとっては「多様な女性キャラクター」なるものが必ずしも必要なものではないので、選択として入れていないのです。スマホ広告でよく見るサバサバ女はハダカデバネズミみたいな外観で傲慢な事を言う滑稽さがありますが、アニメーターが美少女から化粧もヘアセットもしていない外観になったことでどういったバリューを生むというのでしょう*1。そういった視点を無視して「こんな画一的な価値観に基づいて女性像はダメだ」と声を上げてしまえば、必要と感じていないものを無理矢理に使わされる縛りと同じものとして扱われてしまうのも当然ではないでしょうか。

皆、信じる価値観に縛られている

結局、どちらも価値観に縛られているのは同じことでしょう。

ある種の人たちが美少女的な記号を持たないキャラクターを排除して、美少女キャラクターだけの世界を作り上げた一方で、ポリコレ側が「美少女的な記号を持ったキャラクターだけでなく、持たないキャラクターを数多く配置すべきだ」という価値観を持って反抗している。異なる2つの価値観の持ち主がいて、片方の価値観に基づいて作られた作品に対して、異なる価値観に縛られた人間がケチをつけているだけに過ぎず、ある種の人たちだけが縛られていて、ポリコレを信奉する人たちが縛られていないことを意味しません。

都会から田舎に移り住んだ家族が先住住民たちとの間にトラブルを起こしたという逸話には、家にズカズカと入り込んでくる近隣住民が登場することがあります。これも共同体として互いに情報を把握しあおうというムラ的な価値観と、個人の私事や秘密については互いに不可侵であるべきだという都会的な価値観の衝突の構図です。都会的な価値観の持ち主からしてみれば、パーソナルなスペースを暴かれるのはとんでもない侵害に感じるでしょうし、ムラの側からしてみれば誰が住んでいるかもわからないほど情報を絞って隠匿されるのはストレスでしょう。

この話をどう感じるかは、どちらに与するかによって変わります。見方によっては善悪も容易に反転します。ムラ的な価値観に根ざすなら、地域に根ざした文化と異なる価値観を持ち込んだ家族が悪いですが、都会から移り住んできた人たちにすれば、前時代的な価値観で家族に過干渉して、プライバシーを侵害するムラが悪いでしょう。

とはいえ、この衝突は双方が自身の価値観を強要しようとすることで生じています。登場人物のどちらかが柔軟に対応すれば、もう少し穏当な話に落ち着きます。家族の側の価値観が柔軟であれば、田舎の価値観に同調して門戸を開け広げ、互いに家族内の事情などを共有するようになるかも知れません。逆に田舎が柔軟であれば、都会から来た家族たちの望みを理解し、彼らに対してはプライバシーを尊重して干渉を控えるでしょう。どちらかの譲歩があればここまでの衝突にはならないと思います。

と言ったところで、今回の事件はポリコレシティの住民が美少女アニメ村に乗り込んできて「なんて、前時代的なんだ! 現在の価値観に全くあっていない!」と村の門戸に鍵を掛けさせているのか、ポリコレシティに越してきた美少女アニメ村の田舎モンが、我が物顔で隣人の家に上がり込んでいるのかは、この記事を読んでしまった各個人で考えてみてほしいと思いました。

*1:あるあるネタとして身内受けはするでしょうが