虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

境界のアチラ側へ

虚木零児です。

前回からお話しているとおり、イズムは悪い文明というエピソードがまたしても出土いたしました。

私はこういうタイプを「自我が曖昧な人」と勝手に呼んでいる、という話です。

世界には多種多様な人間が生きています。その中には生まれ持った身体によって苦悩している人もいるし、身体の性別と自認する性別が異なる人もいる。性愛の対象が同じ性別という人もいれば、人間に性愛を抱けない人もいます。

昔の歌にある通り「セロリが好きだったりする」んです。

だから、パートナーからのプレゼントに対して、「これから一緒に食べていきたい」ってチョコレートの味を一つずつ買うことが好きな人もいれば、パートナーから施しを受けるぐらいなら自分で買ったほうがマシという人もいる。もちろん、本当に自分の都合だけ考えて「パートナーの金で食うチョコレートが美味い」人もいるでしょうし、「申し訳なくて気持ちだけで十分だよ」という人もいるでしょう。探せば探すだけいろんな答えが出てきて、どれがいい、どれが悪いということはない。というのが、多様性というものなのだと思います。みんな違ってみんないい。

今回の件、問題なのはウォッチャーの言うところの「赤の他人」が夫婦で交わした交流に対して、無理だの何だのと文句を垂れていることなんですね。端的に言えば文句を言う立場でもないでしょう? という話です。

例えば、自分の意に反したプレゼントを渡されて――しかも、相手に美談と仕立て上げられている訳ですから――、それが嫌だったというのならわかります。あるいは事実と異なるように書かれていて不服である、とか、事前にあったプレゼントによる悶着をはいぶいて良いところだけピックしている、とかのトラブルがあるなら、怒るのもわかりますよ。

ところが、この人は当事者でも何でもない。プレゼントを渡した訳でも、渡された訳でもなく、渡された人間から「実は……」と打ち明けられた訳でもない。ただただ、自分が同じ立場だったら嫌だ、という話でゴチャゴチャと喋り出してケチをつけている。

1つ目の曖昧ポイントがここで、当事者をすっ飛ばして第三者がいきなり怒り狂い始める部分なんですね。親からの虐待を受けているが、他に寄る辺がなく親に頼るしかない児童ならば、第三者が怒ってあげるしかない部分はあります。ですが、今回の件では互いにいい年した大人が納得ずくでやり取りしていることを、全然無関係の他人がジャッジしている訳ですから、一体、どういう思考なんだ、という話です。

実のところ、この人が「人からの施しを受け取りたくない人」であることは、チョコレートを購入する夫婦からしてみれば本当にどうでもいいことです。夫婦は自分たちの財貨の中からチョコレートを購入することにし、夫が金を出す役割を、妻がチョイスをするという役割をそれぞれ果たしました。本当にこれだけで完結することで、その隣でバリバリの独居生活者が自分で稼いだ給料で好きなだけチョコレートを買っていても、それとも親子がチョコレートを買っていても何ら関係がない。この夫妻が自分たちが分け合うために2つずつ詰めたからといって、自分の好きなものだけを遠慮なく詰め込んだ人たちが劣るという話でもありません。

それなのに、当事者でもなんでもない人間が、勝手に「私、無理!」にまで急加速しているのを見ると、この人は我が事として受け止めてしまっているんじゃないかと、私なんぞは思ってしまう訳です。

例えば、自身のパートナーから「ウチでもこういうのやろうよ」と言われた、とかならわかります。人は人、私達は私達なのだから、真似をするんじゃなくて私達なりのやり方でいいという話ですし、現実問題としてご本人がそういった奉仕的なやりとりをしたくないという気持ちは尊重されて然るべきだと思います。

それを赤の他人に向かってわざわざぶつけない限りは。

多様性に富んだ社会を掲げる以上、必要になるのは「私はやりたくないけど、この人達はやりたくてやっているんだろうから放っておこう」、あるいは「私は好きでやっているけど、やりたくない人たちのことは放っておこう」という心構えでしょう。「私にはできないな」でも「私はやりたくない」で終わらせることができずに、「こういう行いはクソ」まで接続するからダメなんですよ。放っておくことができていない。

「他人はどうあれ自分は嫌だ」なのか、「自分が嫌だから、こういう風習なくなってほしい」なのか。それが問題じゃあないでしょうか。

私は体質的に酒が飲めるタイプじゃないし、酒を飲みたいと思わない*1。なので、酒を飲むという風習がどうなろうが知ったことじゃないんですよ。ただまあ、お酒を飲むのを楽しみにしている人がいて、そういう人たちがお酒を飲んでいてもなんとも思わない。強要されると流石にちょっとという話ですが、そうでないなら自由にしていただいて構わない*2

そこを「なんで私が嫌いなことをこの人達は平気でできるの!?」という論調でぶちまけるというのは、他人も私と同じ気持ちであるはず、とか、普通ならこういう考えにいたるはず、という発想が根底にあるんじゃないか。と、そういう風に思うんですね。酒と私みたいに「私と他人は全く別種の人間である」という前提に基づけば、「こういうやり取りで喜ぶ人たちもいるんだな」程度に収めていいですから。

ただ、見落としたくないのは今回の「私は絶対にやりたくない!」という意見に対して「イイ話だろ!」と反論している人たちにしても、根っこのところは似たようなところがあると思います。「私が好きなんだから、他人も好きなはず」という前提がなければ出てこないとは思っています。イイ話だと思わない人がいてもいいじゃないですか。あなたがいい話だと思うのなら、それはイイ話です。

個人的な意見を言えば、「『一日、一種類ずつ一緒に食べていく』ってことは『これからも共に過ごしたい』ことの表明である」というのはとても気が利いていて、いいと思います。一緒に過ごしたい人からそう言われたら、喜ぶ人がいるのも理解できます。

夫の側からしてみれば妻が喜んでくれるかもと思ってチョコレートの購入を勧めたところで、妻が自分のことを望みの中に組み込んでくれていることがわかり、出費がかさむことに怯んでいた自分が恥ずかしくなるのも仕方ないと思います。

施しを受けるにとどまらず、相手との関係をより深めている訳ですから、ただのプレゼントよりもコスパが高いですよね。

自分ではできないだろうし、やらないだろうとは思いますが。

 

ここからは私の推測――というよりは邪推になりますが、あの夫婦のやり取りを見て「結婚したくない」という結論に接続しているところをみるに、パートナーからこういうロールを求められることまで想像したんだと思います。だから、私にはできない。こういう男が無理、という話に接続したんでしょう。

別にその考え自体はいいと思います。私は経済的に自立した人間なのだから、他人から施しを受ける謂れはない。という考えは尊重したい。特に誰からもロールを押し付けられていないように見えるのが不気味というのはありますが。それはそれとして。

ただまあ、続く文章を見ると「経済的に自立した人間は他人からの施しを望んでいないこと」を意味しない。ということに気づいていなさそうなのがなんとも。「自尊心を保つためには」という書き方からは、プレゼントをのうのうと受け取るのはプライドのない人間という思考がありはしないかと不安になります。

読んでいくと「私はこういう施しを受ける人間にはなりたくない」という気持ちだけでなく、「施しを与える人間に関わりたくない」という気持ちまで出てくるので、自分以外の他人は自分の思う通りに動くべき、という思想が透けて見え、なんとなく相手に察してほしいという、面倒くさいタイプの人間性を予想してしまうのです。

*1:お酒を飲んだからといって、楽しい気持ちにならない

*2:コロナ禍における公衆衛生の問題を解決しているのならば