虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

身内と他人と思考実験

虚木零児です。

川崎で凄惨な事件が起きました。小学生など十数名が刃物を持った男に襲撃され、児童と男性がお亡くなりになられました。襲撃者は自らの首に刃物を突き立てて自死しており、「どうせ死ぬなら独りで死ね」とかいろいろと話題になっている訳です。言い分はわかりますよ。

で、家宅捜索してみると家にテレビとゲーム機があったとのこと。まあ、今日日、家にテレビとゲーム機があったからどうなんだという話なんですが、そう思わない人もいるみたいですね。

なんというか、世の中いろいろあるよなーと思う訳です。

そもそも凶悪犯罪を犯した人間をプロファイリングして、未然に防ごうっていう志自体がどうかと思いますが、それは置いておきましょう。求められているのは「テレビとゲーム機を所持していたこと」から一体何を読み取れるのかという話であり、これだけテレビもゲーム機も普及している時代、所持していたことから読み取れるのはゲーム機などで遊ぶ習慣があった程度のことが関の山でしょう。これが一昔前なら、ゲームという子供向けの玩具を今でも遊んでいて幼児性が云々……となったかも知れませんが、子供に遊ばせるには不適当なゲームが槍玉に上がる時代ですよ。大の男をターゲットにしたゲームもある中で、ただゲーム機があったからどうなんだという話ではあります。

結局、この一連の出来事でわかることは毎日新聞長野支局次長はテレビやゲーム機を所持している人間を特別視しており、凶悪な犯罪を起こす連中だと考えている」という事実であり、「OK、毎日新聞にはビタ一文落とさねえ」という意思が強くなるだけの話であります。世間の潮流が読めないマスメディアが世間から見放されるのも無理からぬことなら、情報分析を挟めずに事実を述べるだけでは、世間への情報発信のハードルが下がった環境では生きていけないだろうなと思います。

その点、「PCやスマホなどの機器はなかった」という部分にスポットを当てて、周囲との孤立と結びつけただけ産経が上手くやった部類でしょう。

www.sankei.com

昨今のSNSの隆盛からPCやスマホ持たないことが逆に特異であると考え、多くの人がスマホをなぜ持っているかを思案し、そういうソーシャルなネットワークに属する必要がなかったと推測し、事実として周囲との繋がりが希薄だった部分も加味して「孤立していた」という分析をした訳ですね。分析結果が適切かどうかはさておき、一応の分析を行って所信を表明したというところにおいては、毎日新聞よりも一歩進んだポジションにいるといえるでしょう。

だからといって「やっぱり、毎日新聞はダメだ!」とか「産経新聞最高!」とかそういう話をしたい訳ではないんですよ。毎日新聞にもいいところがあって、産経新聞にもいいところがある。みんな違って、みんないい。そうでしょう、皆さん。

我々がなぜ産経新聞に同意できるのかと言えば容疑者を「ソーシャルなつながりのない人間」として切り離す方向に舵を切ったからで、毎日新聞SNS上で総スカンを食らうのかと言えば容疑者を「テレビとゲーム機を持った人間」としてSNSを利用する人々の一部にも当てはまるポジションに落としこもうとしたからです。

私の観測上で「この容疑者は未来の俺の姿だ!」と言う人はいませんでした。「『独りで死ね』といった社会から切り離すような言説は控えて」という人は居ましたが、それにも四方八方から攻撃的な発言が飛ぶ始末。浮ついた綺麗事はやめろというのもご尤もな話ではありますが、この容疑者に未来の自分を重ねてしまった人が社会から「独りで死ね」と切り離されてるのを見て、より孤立の方向に進んでしまうのも望ましい展開でないことぐらいはわかりそうなもの。理由はどうあれ、軽々に「独りで死ね」と言わない社会を志すことはいいことだと思うんですが。皆さん、意外と冷淡ですね。

何にせよ、多くの人にとって今回の事件の容疑者は「身内」ではないのだなという印象を覚えました。人々は身内に対しては親身になり、他人に対しては冷淡になりやすいものです。困っている妊婦に優しい人が、痴漢冤罪に怯える人に対しては急に冷めた言動を繰り返すのも、その人にとって妊婦は身内だけれども、痴漢に間違えられるような人は身内にいないんだろうなというお話であります。だって、妊婦が痴漢に間違えられたら、烈火のごとく怒りだしそうだもん。

今回の場合だと、容疑者の自室にあったテレビとゲーム機をピックアップした新聞はゲーム機で遊ぶ人が身内におらず、一方、その言いように腹を立てている人たちは自分たちもまた容疑者の同類であるかのように扱われるのが我慢ならない。逆に容疑者はPCもスマホも持たずに世間と断絶していたと言われると、SNSでつながって気持ちよくなっている俺たちとは違ったんだと安心できる。

これはSNSでニュースを見ている我々だから、そういう結論に至るというだけのことで、スマホもPCもなく、情報源はもっぱら新聞と噂話という限界集落では、「あの犯人はテレビとゲーム機を持っていた」が「やっぱりゲームやってるヤツは危ないヤツばっかりなんだ」と受け入れられるのに対し、「スマホもPCも持っていなかった」はスマホがPCがないからなんだ、そいつがおかしなヤツだっただけだろう」と反発を覚えていても不思議ではないでしょう。まあ、そういう人たちを相手に商売をしていれば、身内むけにそういう記事を書くこともあるのだろうとは思います*1

見方を変えれば、容疑者が報道であるように幼少期には「孤児、親なし」と呼ばれ、現在では「居候」と疎外されてきたのだとすれば、彼から見た地域住民が身内であるはずもなく、他人に対する辛辣さが刃物による凶行を可能にしたのではないかと考えることも可能な訳です。それが容疑者の行動を正当化するとは微塵も思いませんが、本当に第二、第三の事件を防止するという観点であれば、周囲の人間が疎外することなく身内として扱う必要があったのでは、独りで死ねなんどと辛辣な言葉を向けてはいけない。という意見にも一理あるように思えます。

しかしながら、それは「あなたは社会の一員だよ」と口先で言っても実現はされず、孤児だとか居候だとか心無い言葉を投げかけることを許さず、彼の意思を尊重して親身に寄り添うをことを意味します。こんな面倒くさいことに人生をかけられる人もそう多くはなさそうですので、実現はかなり先のことになりそうだなというのが素直なところ。

素人に解決の道が見いだせるほど簡単な問題ではありませんが、我々には我々にできることから始めていきましょう。まずは、よく知りもしない人を先入観からモンスター呼ばわりすることをやめてみるのはいかがでしょうか。

*1:一応、言っておくと長野みたいな限界集落にはPC、スマホがないとは言っていません