虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

悲しい出来事

虚木零児です。

大変、悲しい出来事がありました。もとはと言えば、人気声優が子供と散歩してたら通報されたというちょっと悲しい出来事があり、それを見て男性の生き辛さに憤った人が「父親に子育てを期待する一方で、子供と歩けば不審者扱いってどうなんだ」と吠えた訳ですね。それに対する反応がコレですよ。

本当に悲しいです。 つまり、どういうことだよ。

莫迦なりに解釈するべく、公園に連れて行った回数をnで表すことにしましょう。この人の言い分を信じるなら、nの値が十分に大きい時は怪しまれません。例えば、n=100の父親と、n=1の父親がいた時、n=1の父親は不審な目で見られますが、n=100の父親は怪しまれることがない。そう読めます。

すごいですよね。自分の周囲に見慣れない人間がいるのはおかしい、排除されて然るべきだ、という思想を持っていること。そして、それをなんのためらいも無く他人に押し付けられる傲慢さ。控えめに言って気持ち悪いです。

更に気持ち悪いことに、「育児しない男親がクソ」っていうニュアンスを滲ませてるんですよね。自分で言ってて(あれ? おかしいな?)って思わないんですかね。

男性が現状、育児に携わっていないというのは認めましょう。これからは男性もどんどん関与していくべきだという話もわかります。そういう視点から出てくる言葉が「現時点で十分に貢献していない奴はクソ」っていうのが現代日本のスゴさですよね。

先刻、定義したnを使えば「これからnを増やそうとする(かも知れない)人が、現時点でのnの値の少なさを理由に排斥される」という話であり、そこから「nの値が少ない奴を排斥することを肯定する奴が、他人のnの値が少ないことをとやかく言うな」という話に発展するのは当然の道理であり、それに対して「うるせえ、nの値が低い奴が人権を主張するな」と返答できてしまうこと自体が社会の残念さを物語ります。

さすがは名指しで人権意識後進国とDisられる国家です。

今、この瞬間にnの値が十二分に大きい人がいたとしても、その人にもn=0だった時代は当然ありますし、そこからn=1にステップアップし、それを繰り返すことで現在の姿になったはずです。つまりはnの数が少ない人を排斥することは、将来的に生まれるであろうnの値が大きい人が生まれる可能性を阻害することであり、男親の育児に対する強烈なブレーキとなります。ブレーキかけながら「なんで進まないんだ!」って叫んでるのは滑稽ですし、その滑稽さを嘲笑われて尚、ブレーキを力一杯踏んづけてるのは哀れさすら覚えます。

自分たちの正当化の為に「育児したくないから言い訳にしてるんだろう」などと邪推しておられましたが、「お前はこの場にいてはいけない人間だ」と突きつけられて尚、踏みとどまることを強要するのって、普通にハラスメントだと思うんですよ。いじめる側しか経験してこなかったんでしょうかね。

口先では「ハラスメントはダメだ」とか「差別はよくない」とか言いながら、「公共施設に見慣れない人間がいるから通報して排斥しようとする」だけでも頭がおかしいのに、あまつさえ「私に顔を知られてない奴が公園を利用できないのは当然」レベルのことまで言ってのける面の皮の厚さ。何mぐらいあるんですかね。

道理のない理屈で他者に対する攻撃感情をむき出しという娯楽が広まりすぎるあまり、社会をより良い方向に進めていこうという真面目な運動がおろそかになっていくのは本当に悲しいものがあります。これからの長い時間を共に過ごすであろう親子の門出に、不審人物扱いして警察をけしかけるような社会ではなく、温かく見守り、あわよくば迎え入れるぐらいの寛容さを見せる世界にならないものでしょうか。