虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

してもよい。と、してはならない

虚木零児です。

バトスピの日本語って面白いなあと思っていた時期があります。日本語として正しい文面であるかどうかはともかくとして、ゲームに造詣のある人はが読めば、一通りにしか読めないように作られている。ゲーム中には強制的に発動する効果と、発動する・しないを任意に選べる効果があって、前者は「する」と表現され、後者は「できる」と表現されているんですね。いやまあ、僕も全てのバトスピのカードの効果表記を確認したわけではありませんので、例外はあるかも知れません。

ただ、少なくともバトスピのゲームでは「する」と「できる」は明確に違うものとして区別されていて、プレイヤーもそこを認識しているから効果処理がスムーズに行われていくんですね。

batspi.com

それはさておき、双方に表現に対する共通の理解があって初めてスムーズに話がやり取りできる。今回はそういう話です。

してもよい。という言い回し

例えば、ホテルとかだとベッドにフットスローとかいう布が被せられていますよね。ちょうど足が来る辺りにある細長い布です。あれは上に寝転んだ人間の靴からベッドカバーに汚れが移ることを防ぐための措置らしいですね。つまり、フットスローのあるベッドには靴を履いたまま寝転んでもよいんです。

ここで一つ認識しておきたいのは、靴を履いたまま寝転んでもよい。は、靴を履いたまま寝転ぶことを強要しません。あなたが寝る時に靴を履き続けることを望まないのであれば、靴を脱いでベッドに寝転んでも構いません。

……たぶん。きっと。もしかしたら、靴を脱ぐ文化のない地域だと素足や靴下でベッドに横たわるのはマナー違反だったりするのかも知れません。まあ、だったら、寝転んでも良い。っていう表現じゃなくなるだけですね。

しなければならない。という言い回し

世界のどこかでは靴を脱いでベッドに寝転ぶと怒られるとした場合、文章で表すとすれば「ベッドには靴を履いたまま寝転ばなければならない」でしょう。これは先程の「靴を履いたまま寝転んでも良い」とはぜんぜん違う表現であると同時に「ベッドに靴を脱いで寝転んではならない」ことを意味します。

人があることを「しなければならない」時、それに反する行為は禁止されます。酒造りの為に微生物の環境を整えなければいけない時、それを乱してはいけません。日常的に糠床を触っていた女性が立ち入りを禁止されていたり、朝食に納豆を食べた人間は見学できなかったりするのはその為ですね。

同様に何かを「してはいけない」時、必然的に何かを「しなければならない」状況に陥るということもありえます。無菌室は菌を持ち込んではいけないので、入念に菌を落とさねばならない。とまあ、そういうことですね。

だから、「公共の場に出してはいけない」表現なのであれば「人々の目から隠さなければいけない」という主張へすんなりと接続するのも当然といえば当然です。だからこそあれだけの反発を生んでいるのですが。

しなければならない。の意味

「オタクなんて後暗い趣味なのだから日の当たる場所を歩いてはいけない」という言葉はその裏に「オタクは人目を忍ばなければいけない」という意味を持っており、オタクと呼ばれる人たちに日陰で生きることを強要します。もちろん、日向で生きることは許容しません。

この発言が日陰にいたくないオタクや日向に憧れるオタクから反発されるのは当然のことだと思います。さらに言えば、自身は日陰の方が居心地はいいし、日陰にいることに不満はないけれど、日陰に他人を押し込む圧力に反発する人たちからも非難されると思います。だって、属性に基づく抑圧ですからね。これ。

「妄りに女性の表象を使ってはならない」のであれば「女性の表象は適切に使われなければならない」ことを意味します。女性向け下着の広告でモデルが下着姿を晒すことは女性の購買意欲を誘う為なので適切だが、家事ロボットが女性の姿をしているのは、家事を女性の仕事だとの偏見を助長するので不適切だ。

「家事ロボットの外見なんてなんでもいいのに、わざわざ女性を選んだということは家事は女性の仕事だという偏見を助長する」とは騒動当時によく言われていた言説ですが、これって矛盾を起こしているんですよね。本当に「外見なんてなんでもいい」のなら女性でも問題はない訳です。でも実際は、「家事に従事するロボットに女性の外見を与えてはいけない」。なぜなら「家事と女性の結びつきを強めて、偏見を助長する」から。「外見なんて何でもいい」はずはない。

「しなければいけない」や「してはならない」は自由に干渉します。望むと望まないに関わらずしてはいけないし、しなければいけないからです。

してもよい。の意味

現状、男性の役割とされていることは多くあります。例えば、膂力が要求される作業に女性の就労は禁止されていて、男性でなければいけません。それは人間の性差から一般的に男性の方が力が強いことが理由であります。文面で明言されてはいなくとも、力の弱い男性――例えば腰痛持ちの男性など――は就労できません。たとえ本人がどれだけ強く望んだとしても、です。なぜかって、危険だからね。

逆に言えば、パワーアシストスーツなどが発展していき、男性と女性の間の筋力の差が補えるようになれば、いわゆる力仕事であっても女性が就労できる未来も十分にありえると思います。今現在、女性のトラックドライバーもちらほらと見られるようになりましたが、あれもパワーステアリングによって要求される操舵力が下がったことは無視できません。同様に、パワーアシストスーツが現場で一人に一着用意されるほどに普及できたならば、女性が力仕事に従事できる未来も見えてくるでしょう。

だからといって、女性が力仕事に従事しなければいけない訳ではありません。冒頭にて述べたとおり、力仕事に従事することが可能なだけであって、従事するか・しないかは個人が選択するべき話に過ぎません。それこそ「君は力仕事をしてもいいが、しなくてもいい。」のです。

 

 

もっと僕たちは自由に考えていいはずです。別に家事を担当するロボットが女性の姿をしていてもよいし、全身を義体化した男性よりも強い女性が戦士として戦ってもよい。もちろん、全ての女性はそれらの表象に倣わなくてもよいし、倣ってもいい。

女性は家事をしてもいいんなら、女性が家事をする姿を描写してもいいはずです。ただある女性が家事をしている。ただそれだけのことなのだから、それを見て「女性は家事をしなければならない」と思い込まなくてもいいんじゃないですかね。