虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

努力するシーンは必要か?

虚木零児です。

鬼滅の刃ヒットの要因を探ると称して、昨今の作品には珍しい努力のシーンが描かれていたという説が出てきたようです。それすなわち、昨今の作品に努力シーンが描かれていないという話になるので、いろいろなスポーツ漫画などが巻き添えで努力が描かれていないことになりました。

論評するのはいいんですが、そういう所に思い至らないものなんですかね……。

まあ、近代創作物の努力シーンの描かれ方の傾向については詳しい人にお願いするとしてですね。そもそも、創作物――漫画、小説、アニメーション――に努力するシーンは必要なのか。という話です。

努力とはなにか

そもそも、努力とは何でしょう。辞書によれば下記のとおりです。

どりょく【努力】

《名・ス自》目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。

目標の実現のため。つまり、修行であれ特訓であれ、努力とは何かを実現するための準備です。それは新しい技術の体得かもしれないし、強敵と戦えるだけの能力を身につけることかもしれない。

物語において努力のシーンは、説得力に影響します。主人公が厳しい訓練の末に新技術を身につけるのと、何の前触れもなく新技術を披露するのでは話が変わってきます。

人間は物事を受け入れるのに理由が必要で、努力はその一つとして使われています。

漫画にも「成功者はすべからく努力している」という有名なセリフがある通り、努力自体がネガティブな、不要な要素と扱われることはまずありません。また、努力のような裏打ちのない能力はインスタントと言われていた時期もありますし、今でも降って湧いた能力はチート(ズル)と自称する作品も少なくありません。努力は尊いものとして扱われてはいます。

一方で、転生モノであったり、チート能力モノであったりが隆盛している様子を見ていると、昔ほど努力が重視されていない感覚があるのも確かです。異世界転生モノの中には現代においては常識とされるような知識が、転生した先の世界ではまだ広まっていなくて革新を起こすという物語あるでしょう。

このとき、現代社会において知識を習得する労力・努力は、読者や視聴者から努力として認められていません。それこそ、大の大人が小学生相手にガチの相撲を取っているような、いわゆるズルさを感じてしまう。

努力の意味にもある通り、努力には「ほねをおる」必要があるのです。先人によって体系化された技術を安穏と学ぶのは努力には含まれないのでしょう。

……本当に? 勉強している学生は努力していない……ってコト?

そう考えると、どちらかといえば、すごいことをする主人公なのだから、スゴいことをしていてほしいという欲の方が近いでしょう。星飛雄馬大リーグボール養成ギブスドラゴンボール精神と時の部屋ハンターハンターの一日一万回感謝の正拳突きなどなど。上げ始めればキリがないですが、常人にはなし得ない努力を成し遂げたからこそ、彼らはすごいのだよ。という説得力に使うには、現代の常識的知識を持っている程度では足りないのでしょう。

努力だけが説得力ではない。が、努力は未だ必要だ

ただ、裏付けのない力を持ったキャラクターが出てくる物語が増えたのかといえば、そういうわけではない。努力に変わる新しい裏付けを持ったキャラクターが増えてきているんですよ。

転生モノなんかだと、実績がある訳です。喧嘩最強ヤンキーがいじめられっ子に乗り移ったり、最強傭兵が転生したりした場合、前世で喧嘩が強かったという実績がある訳ですから、転生しても肉体的な問題はともかく、技術的に強いのはおかしくない。

他にも人外的な要素、人以外の生き物であるというのも、高い能力の裏付けになりえます。ジョジョで言う吸血鬼や柱の男、それこそ、鬼滅に出てくる鬼だって、人ならざる者であるがゆえに強い*1訳で、必ずしも努力家である必要はありません。

でもだからといって努力が不要という訳ではありません。例えば転生前から格闘技術や戦闘知識を持ち込んでも、それを扱いこなす為の肉体ができていなければ役に立ちませんし、人間相手には敵なしの人並み外れた怪物であっても、近い実力同士で争うとなれば技術の研鑽が勝敗を決する要因になりうる。

物語上、あまり努力せずに目標を達成できることはあれど、全くの無努力のままに進んでいくということはほとんどありえないでしょう。

彼らは常人が及びもつかない特訓をしたことで超人的な力を得たんですよ。あるいは、他の人とは比べ物にならないほどの練習でこの技術を得たんですよ。とか、実力や能力の裏付けとなるシーンはみなさんもお持ちの漫画の中を探せば見つけられると思います。作品によって描写の多寡はあるにせよ。

バタバタしてるところを見たいか?

じゃあ、ですよ。冒頭でやり玉に挙げた評論家の目に、鬼滅の刃と他の作品が違って見えたのはなぜか? という話なんですね。鬼滅の刃が入念に修行した上で戦う様に見えて、他の漫画がそう見えなかったのはなぜなのか?

私としてはそういう踏み込んだ話が聞きたいんですよね。というのも、鬼滅の刃のこと全くと言っていいほどわからないので。

ただまあ、読んでなくてもわかることとして、鬼滅でできることが他の作品でも全部できるかといえばそうでもないと思うんですよね。鬼滅の刃には鬼殺隊という組織があって、炭治郎も善逸もそこに所属している。隊というだけあって、隊員の人数もそれなりにいて、戦闘のみならず様々な役割を持っていることが示唆されています。また、戦闘員に絞っても、炭治郎たち以外に柱という有力者がいます。鬼の出現頻度とかはわからないけれども、主人公が入隊する前から鬼は倒されてきたし、主人公たちがいなくても鬼がのさばり続けるという状況にはならない。つまり、炭治郎たちは次の出番、出撃に向けて体制を整える時間が用意されており、憎き仇敵と戦うまでの準備として修行する時間が取られていると言えるわけです。

すべての作品の登場人物がそういう状況とは限らないですよね。

例えば、ア・バオア・クーまで押し込まれたジオン軍のシャアがサイコミュ兵装の習熟トレーニングで、ジオングの身体にアームの有線を絡ませて教官から怒鳴られている余裕があるかという話です。そこはやはりぶっつけ本番で乗りこなしてもらわないと間に合わない。これまでもいろんなMSを乗り継いできた実績があるのだから、今回も歴戦のエース、シャア・アズナブルとしてアムロ・レイの前に立ちはだかってもらわないと困るじゃないですか*2

かなり極端な対比になってしまいましたが、物語の描写の上で努力している余裕があるか、ないかという違いがあれば必然性も変わってくるのはわかるかと思います。追い詰められた王国の戦士として転生者が奮闘する作品で、努力しているシーンがなかったとして、努力するシーンを追加することでより面白くなると言えるでしょうか?

例えば、スポーツを取り扱う作品だと次の対戦相手への対策として特訓をするシーンが出てくることが多い。ただ、これってあくまでトーナメントなりリーグ戦ありきの展開であって、次に戦う相手がわかっていて、相手の強みがわかっていて、それでいて、その戦いまでに十分な準備期間が取られているからできる戦術ですよね。

これと同じことをバトルものでやろうと思うと、どこから相手の情報を入手するかが問題になります。手っ取り早いのは一度負けてしまうことですが、だからといって毎回負けていたのでは主人公の格に問題が出ます。弱小主人公が負けるたびに相手を研究して、徹底的に対策して強くなる物語にならざるを得ない。

そして、それを許容できるかどうかは物語の構成によります。主人公が敗北して雪辱を果たすまでの間は、敵が野放しも同然ですからね。これが今日できる物語であればいいですが、最後の砦を守り抜くんだ! というラインで、主人公が崩れてしまっては悲惨なことになってもおかしくない。

だいたい、必ずしも相手の能力が事前にわかっていて、対策ができるとは限らないのだから、努力してればどうにかなるとは限らないって話です。親も恩人も恋人も魔王に全部殺されてから、血の滲むような努力で最強の剣鬼になって復讐を果たした所で、失われたものは帰ってこない。

それならば、天才的なひらめきや、降って湧いた力で切り抜けてくれたり、主人公が相手の能力すらも意に介さないような圧倒的な力で叩き潰した上で、平穏な生活が守られている世界のほうがいい。

僕たちが見たいものはなにか? 彼らが描きたいものはなにか?

そもそも、僕たちは必ずしも裏付けを必要としているのでしょうか。声帯模写が得意なキャラクターがいたとして、その人物が様々な声で訓練しているシーンを見たいでしょうか。人を助けるガジェットを作るキャラクターがいたとして、試作品の山の中で髪の毛を掻き毟るシーンを見たいでしょうか。それよりは、声帯模写でスマートに窮地を切り抜けるシーンであったり、特性ガジェットで華麗に活躍するシーンが見たいのではないですか。

努力シーンはそれらを差し置いてまで見せるほど重要なものですか?

何にスポットを当てるかなんて作者さんの自由な訳です。ダンジョンの中での戦闘にスポットを当てるもよし、食事事情にスポットを当てるもよし、異なる文化体系を持つであろう異種族同士の言語ギャップにスポットを当てるというのも面白いでしょう。

自分でボロクソに書きましたが、びっくりどっきりメカの作者がいろいろな実験や試作品づくりで失敗を繰り返してのたうち回る姿を面白おかしく描けるのであれば、そういう作品が作られるのだと思います。

推理漫画の裏で犯人たちが七転八倒する様を面白おかしく書いた漫画が人気になったこともあるのですから、何を面白く感じるか、感じさせるかなんて、そう簡単に言いきれるようなものじゃないのでしょう。そういう訳なんで、たとえリップサービスだとしても「努力シーンが読者の目に新鮮に写った」なんてうかつなことを書いてほしくはなかったというのが正直な感想ですね。

*1:その状態から更に修練を積んで強くなっているキャラクタもいるのが恐ろしいところ

*2:シャアの実績が誇らしいものか否かは言及しないものとする