虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

異常と正常の間で

虚木零児です。

テラスハウスの出演者が自殺しました。

番組のある事件を境に、誹謗中傷が浴びせられるようになり、心を病んで自らの命を絶ったのだとか。詳しい事情は存じ上げませんが、お悔やみ申し上げます。

番組内での立ち振舞を理由に言葉の暴力を浴びせて死に追いやる行為が激しい非難に晒されるのは当然のことだと思いますし、繰り返されるべきでない出来事だとは思います。

それはそれとして、気になっていることがあるんですよね。

どうして番組を叩かないの?

勘違いしてほしくないんですけど、番組に問題があること、あるいは出演者に問題があることが心無い言葉を浴びせて死に至らしめることを肯定するとは思っていません。品性下劣な番組で目を疑うような行動があったとしても、それは暴力を浴びせていい理由にはなりえない。

それを踏まえた上で、何故誰も*1番組を叩かないのか不思議という話ですね。

そもそも、なんでアンチに粘着され始めたかと言えば、共演者に対する立ち振舞に不満を覚えているところに、暴力めいた行動を取ったのがきっかけとされています。ショー番組で暴力を振るったことが、アンチの粘着を免責しないことを踏まえても、気に入らない相手に対して力によって黙らせていいというメッセージを出してしまった点については看過してはならないと思います。

え? そんなメッセージは出してない?

またまたご冗談を。だって、宇崎ちゃんのポスターに対しては、女性のモノ化だとか女性蔑視だとか散々言ってきたじゃないですか。ただ、胸の大きな女性の胸が強調されていただけで。それに引き換え、今回の事件では実際の加害行動が描写されています。出演者・演出家がどういう意図で行ったシーン撮影だったとしても、他人の失敗を理由に暴力を振るう姿を見せてしまったことに違いはありません。他人の失敗を激しく責め立てることを肯定する空気作りに加担したと言ってもいい。漫画の犯罪シーンが罪の意識を薄れさせるのであれば、他人のミスに手を挙げるシーンを野放しにするのは、失敗者に対する激しい叱責を許容すると言えるはず。常日頃、差別だ圧力だといった機微に敏感な人達ほど、今回の番組のやり口には反発を覚えるだろうと思っていたのですが。

それに、アンチと化して出演者に誹謗中傷を浴びせたのが、番組の視聴者たちであっただろうことが見逃されているのも気になります。何度も言いますが、出演者の振る舞いが横暴であったことは、アンチたちの振る舞いを正当化はしません。しかし、暴力的な振る舞いも出てくるような低俗な番組を消費していた人たちが、他人に死を願うような言葉をぶつけていたことには何かしらの因果のようなものを感じます。果たしてこのような番組が公共の電波に載って家庭に放送されて良いものなのでしょうか。もっとクローズドな場所で発表されていれば、あるいは、そもそもこのような番組が存在することがなければ、こんな悲劇が起こることはなかったのではないでしょうか。

 

正直に言えば、僕自身がここまでに書いたことを心の底から信じている訳ではありません。何度でも繰り返しますが、番組の内容が低俗であること、あるいは、その番組内での振る舞いが横暴であったことは、出演者に対して心無い言葉を浴びせることに対する免罪符にはなりえません。多くの人間が寄ってたかって一人の人間を死に至らしめた原因は、人を人とも思わぬ言動で被害者を追い詰めた一人一人の性根にしかありません。外部にそれを求めるのは罪悪感から逃れたいだけに過ぎません。

それは何も今回の件に限った話ではなく、女性の尊厳を傷つけるような発言に対して、無関係な食い扶持に対して圧力をかけたり、死ねば同情してもらえるなどといった人間性を疑うような言葉で応戦をしていた人たちも同様です。他者の人間性を貶め、人格を否定するような言動を繰り返し、人を死の淵に追いやるような振る舞いは、いかなる理由があるにせよ取るべきではないでしょう。いかなる崇高な目標を掲げようと、個人に対する攻撃に転化するような下劣な品性は蔑むことしかできません。

自分たちが気に入らないコンテンツに対して投げかけてきた言葉を振り返ってみてほしい。敵対して陣営に対してぶつけてきた言葉を思い出してほしい。どれだけの人間を踏みにじり、痛めつけ、満足を得てきたのかを噛み締めてほしい。

我々に悪意に押しつぶされた女性の死を悼む資格があるのか? そんな綺麗事を言えた立場か? 僕らが敵意を投げ合う姿が今日の環境を生み出したのではないのか? その敵意に押し流された人間に憐憫の情を覚えている場合か? 殺したのは我々では?

故人を偲ぶこともできぬ社会不適合者も、時にはそのようなことを考えながら夜を過ごすのです。

*1:怒りのあまり筆が走りました