虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

人の振り見て我が振り直せ

虚木零児です。

トーンポリシングっていう言葉があるんですよ。

ja.wikipedia.org

言論の内容じゃなくて、口調や論調といった別の要因を問題にして、議論をそらしてしまうという手法です。乱暴な言葉遣いがどうとか、口の聞き方がなっていないだとかは一見して秩序立てられた正しいことなんですが、実際は内容について言及することなく相手の発言をキャンセルしようとしている訳で、それはよくないことだよね。といった主旨の言葉です。上記記事では触れられていませんが、お前のような立場の人間が何を言うのか、とかも、内容以外を問題にしているという点ではこういった批判の延長線上にあるように思えます。

やはり、こういった論調の的になりやすいのは弱者が多いようです。日本死ねというブログ記事が一斉を風靡しましたが、過激なワードが目を引いて議論がぼやけてしまった部分はあるんですよね。限られた要員で社会での子育てを実施していくと考えた時、彼女の子どもが保育園に落選したのは正しい分配だったのか。については、さほど議題には上がらなかった訳です。まあ、書いた本人も権力批判がしたかっただけで、誰か不適切な人間の枠をよこせという話をしたかったわけではないでしょうから、別にどうでもいいことだとは個人的に思います。

自分の好みの言論が、内容と無関係なところで批判を受けている状況だと、この理屈って本当に頼りになるんですよ。おい、服装が合ってないからなんだってんだ。発話者が少し訛っているからって何だ。言っていることに違いなんかねえだろうが。という主旨の発言にそうだそうだ、と頷いてしまう人も一定数いることでしょう。

その中に、「どこの馬の骨かもわからねえ人間の言うことなんか信じられるか」とか「敬語もろくに出来ない奴が話を聞いてもらえるわけねえだろ」とかに賛同したことある人がどれぐらいいるのか。っていう話なんですよね。

「匿名アカウントの発言なんて信用に値しない」でも「いきなりそんな言葉遣いでリプライを送ってまともに相手してもらえるなんて思わないことですね」でもいいです。トーンポリシングを批判するのであれば、相手の態度や立場に囚われずに内容について真摯に対応すべきなんじゃあないですか。

実務的な問題を考えるなら、数多く飛んでくるクソみたいなリプライ全部に大真面目に返していたら時間がいくらあっても足りないという話はそのとおりです。影響力という観点から考えるなら、ブランドのある人間の意見にだけ真面目に対応しておこうというのもSNS上での立ち回りとしては現実的でしょう。フォロワー数も限られている木っ端みたいなアカウントを真面目に相手する義理もありません。酔っ払いおっさんの限界アカウントと社会運動家インフルエンサーアカウントから同じような指摘を受けたのなら、社会運動家に「どうもどうも」って挨拶しておいた方がよい。

そう考えるんなら、トーンポリシングなんて大層な理想を掲げるのやめたほうがいいんですよ。僕たちは感情や激情は配して、知性的、理性的なコミュニケーションを心がけましょう。相手の感情を逆撫でしたり、権利をおおっぴらに侵害するような言動は慎みましょう。という理念に鞍替えしたほうがよい。

トーンポリシングとはっていう話は上でしましたが、それはつまり何かと言えば立場や言動に左右されず、誰もが自由に意見を出して、それが正当に評価される社会を目指そうっていう運動だと思うんですよ。つまりは、「感情に任せて喚き散らすだけの奴の言動から、理路整然とした論理になりそうな部分を抜き出す骨を折りましょう」っていう話ではないんですか。経歴も知れないバックボーンもよくわからない人間の言動でも内容についてはしっかり吟味して、初めてトーンポリシングなるものがなくなると思いませんか。

強気な言動だとか、文言だとかじゃないんですよ。議連の主張が曲解され、論点が外れているというのなら、「質問者はこういう理解に基づいて、こういった疑義を唱えているが、質問状の内容からはこういう理解と読み解くのが自然である。質問者は曲解に基づいて議論を組み立てており、曲解が正されれば議論の必要がないことは明白である」とでも書けばいい話じゃないですか。

本当にトーンポリシングなるものがなくなってほしいと願うのなら、回答を得られるような文言じゃない。っていう理屈で無視をするのはどうなんだっていう話になるのは当然の話だと思いますが。

結局、自分の言動をキャンセルされたときの対抗策としてトーンポリシングというワードを切っているだけで、立場や経歴、キャリアなんかに左右されない自由な意見交換ができる議論空間が理想とまでは思っていない。だから、出自の知れない人間や実績的に不審な人間に対しては「あなたは誰なんですか?」って言えちゃうんじゃないですか。一人の人格を持った人間の意見に対して発話者の言動なんて些細な問題だって話はどこに行ってしまったのか。

別にこの人に限った話じゃないんですよ。人間って誰しもそういう傾向があります。社会としての利益を最大化する為の理論なんて必要としてなくて、自分の利益を大きくするために使えそうなら使うっていうだけなんですね。

news.yahoo.co.jp

交通違反12回って正直多いと思うんですよ。一応の体裁としてはみんな交通規則に基づいて車両を運転できます、という免状として運転免許を持っているはずで、だからこそ違反が続けば免許を停止されるんじゃないですか。具体的にどういった違反を犯したのかとか、それによってどんな事故があったのかとかは調べてもいません。警察のポイント稼ぎに巻き込まれて、些細なことを論われたんだというのなら同情できるかも知れない。ただ、違反を何度も犯すような精神性の奴に車両を運転してほしいかといえば、正直してほしくはないです。

もちろん、生活の中に車両の運転を組み込んでいる人たちからしてみれば、いきなり車両を取り上げられたら困るというのは事実だと思います。運転停止につながる違反回数も少ないよりは多いほうがいいでしょう。「12回ぐらいでそんな大げさな……」と言いたくなる心理はわからないでもない。

ただ、社会全体の利益としては運転できるだけの技量、能力のない人間は運転をしないほうがいいんですよ。以前、なぜか交差点に侵入しようとしてきた右折車を避けた直進車が保育園児たちに突っ込んだ痛ましい事故がありました。記事にした時は、直進車は右折車に突っ込まれたら歩道に突っ込むのが水準でいいのか? っていう意見を出したんですね。察知して止まれるならそれに越したことはないし、止まれないにしても歩道に突っ込むことを避けられるなら万々歳。そういう人間だけが車両に乗るようにしてくれたほうが歩行者としてはありがたいんじゃないか。

rageutsurogi.hatenablog.com

交通事故なんてなくなるに越したことはないのだから、そういう芽を摘むためには厳しい規範を課すのもやむなしというポジションですね。政治家の汚職事件なんかがあるとそういった論調はよく出ます。市民・国民のために働くべき政治家が特定個人に口利きするとは何事か、軽微な違反とて見逃されるものではない。

たぶん、この木下某もそういう一端の口を利いてたこともあったでしょう。それがいざ自分の番になると唐突に「たくさんでしょうか?」と言い出してしまう。12回の違反が大したことじゃないのなら、高齢者ドライバーが免許を返納する義理もないですよね。結果として違反によって大きな事故が生じていなかっただけの話で、いつか大きな事故につながるかも知れないんだから、という理論で取り上げてきたんだから、13回めのラッキーが舞い込んでくることを期待するよりは、起こせないように取り上げてしまったほうがいいというのが一貫した意見ではないですか。

なんだろう。問題や規則について見た時は、他人の行いのアラを探すよりも前に、自分を振り返って正すべき行いを探した方がいいと思います。他人に突き刺す為の武器にしておきながら、自分に刺さりそうになったら自分可愛さに急に甘いことを言い出すのも正直に言えばやめてほしい。本当にその理論で社会が良くなると信じているのなら、自分の内臓を掻き出してでも信念に殉じる必要があるんじゃあないですかね。