虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

欲望には素直になれ

虚木零児です。

人間って大小様々な欲を持つんですよ。

例えば、逃げ回っている間に俺の相方が敵のコストを全部奪ってきてほしい。俺が合流するまでダブロ捌き切ってほしい。みたいなね。こいつ、無責任なこと言ってんな。

例えばこういうのとか。

はい。ご察しの方、正解です。今回はサイゼテストと派生したアレコレの話をします。悪いがサイゼリヤくんにはもうしばらく玩具になってもらう。

大雑把な流れとしては「Twitterに『サイゼで喜ぶ彼女』という絵が流れる」←A「男の欲望が透けて見える!!」←B「こういう(Aみたいな)の弾けるだけでテストとして優秀」←C「人を評価するな!」「サイゼに失礼だろ!?」です。時間の流れ順に書いてて、矢印の向きが矛先です。

僕が見かけた代表的なのを抜き出したので、枝葉の部分を追いかければもっと色々面白い人がいるんでしょうが、今回の話には関わってこないので置いておきます。

僕が考えるに一番、頭おかしいのはCポジションの人なんですよ。

確かにサイゼリヤテストにおいて、サイゼリヤが高く評価されてはいない。サイゼリヤよりももっとウケのいい、いわゆるデートに向いた店があるよね、という前提があって、それでもあえてサイゼリヤを選ぶことで相手の高級志向とか見栄とかをあぶり出していこう、というテストですから。少なくともサイゼリヤを、キラキラしたバエるレストランとしては扱っていません。

飲食店がキラキラしてバエてる必要あるか? っていうのを置いておくとしてもですよ。企業理念において「おいしさとリーズナブルへの挑戦」を掲げている店が、庶民的なレストランの象徴になるのは当然のことではないか。

……大体ですよ。サイゼリヤを庶民的なレストラン扱いなんて不当だ! ってキレるんなら、もっと酷い奴がいるじゃないですか。Aですよ。

「男の欲望が透けてみえる」ってことは、サイゼリヤで喜ぶような女なんて男の妄想ぐらいでしか存在しない。あるいは、男側の都合に合わせていなければありえない。って話ですよね。悪い言い方をすれば「まともな女はサイゼリヤに行きたがらない」っていう意味ですよ。金銭管理も食事管理も出来ない癖に、やたら支配的なヤンキーがサイゼリヤでキャッキャッしてる絵を貼って喜んでる人もいましたけど、この人達が本当にサイゼリヤに対して礼節を持って接しているんですか? っていう話なんですね。

「デートなのにサイゼリヤ連れて行かれた。最悪」をスルーしておいて、サイゼに失礼もクソもねえんですよ。礼節を重んじるんなら「は? サイゼリヤはデートに使っても一向に構わんが?」って言ってから、次に「試験紙扱いすんな」ってキレるのがスジってもんだろうが。

「人を評価すんな」も同じようなもんで、サイゼリヤでも喜んでくれるか人を試したんだろ! っていうのはあながち間違いでもないんですが、サイゼリヤで喜んだ女の絵図だけで男に媚びてると言い出す連中が何をしているのかを考えてほしい。デートでサイゼリヤに連れて行く奴は碌な者じゃない、サイゼリヤで喜ぶような奴は碌な者じゃないって評価を下してないと出ないんですよ、あの言説は。

最初に評価を下したのはAなんです。なんで、そっちを無視してBや絵師にだけ反論したくなるのか冷静に考えました?

たぶんね、AもCもやりたいこと、やってることは同じなんです。自分がやられたくないことを、相手にやらせないようにしたかった。根っこの所では冒頭で引っ張り出した、サイゼリヤをネタにして遊ぶなってキレてる人と変わらない。

ただ違うところは、冒頭で引用した人と違って、Aポジの人もCポジの人もストレートに「やめろ」とは言えなかったんですよ。お前のやっていることは社会的に悪なんだ。って言ってやめる理由を作っている。私の言説でやめさせるのではなく、自発的にやめたように誘導しようとしている。

これって「料理作るんならレトルトの麻婆豆腐なんて使うなよ」とやってることは大して変わんないです。本人がレトルトの麻婆豆腐を食いたくないのなら「レトルトの麻婆豆腐やめてくれ」って言えばいいのに、レトルトの麻婆豆腐を使うのは手抜きだ、悪だってレッテルを貼ることで使わせまいとしている。

Cも一緒ですよね。「口答えするな、黙れ」って言えばいいものを「サイゼリヤで人を測るのは悪だろ」って言ってしまう。「お前らは評価するな」って言わずに「人を評価してはいけない」って言ってしまう。だから、「一緒に行った食事がサイゼリヤだったのを理由に人を測っている奴がもっと手前にいるじゃん」っていう話になる。

Aも同じなんです。単純に絵が気に入らない、あるいは、デートぐらい大衆相手じゃない店に行きたい、っていう話なのに、ストレートにそういう物言いができないから、「サイゼリヤで喜ぶ女なんて男の欲望が滲んでる」とか「妄想が気持ち悪い」とか「男に都合が良すぎる」とかって言わなくちゃいけなくなる。たとえ全世界の人間がサイゼリヤで喜ぼうが、自分が嫌なら嫌って言っていいですよ。

というか、「評価してほしくない」を「評価してはいけない」と表現するのって盛大なバグが発生するんですよ。なぜかといえば「評価する行為を禁止したい」とまで思っている人ってそんなにいないからなんですよね。

よくあるじゃないですか。「専業主婦を『食わせてやってる』と言いたいなら最低でも年収はN万は稼げ」みたいな話。これって評価以外の何物でもない。N万っていうボーダーを基準にして、超えてるなら食わせてる、超えてないなら食わせてないって判断するのが評価じゃなくちゃ何なんだ。っていう。

この人なんか典型例なんですけど「人の価値観を試して篩にかけるなんておかしい!」って言いながら「篩にかける人」を刎ねてるんですね。価値観の似通った人たちを集めたいなら、ある程度の選別が必要とは認識している。なのに自分のことは棚に上げて「試すなんて!」って言っちゃう。

それなら、せめて「そんな条件はよくない」でしょう。

「人に点数をつけるなんて最低! 0点!」みたいな言動の人が何したいかって言えば、採点基準を統一したいか、自分に下された採点に不服つけたいかのどっちかが怪しい。今回の例で採点に不服つけるってことは、好かれたいと思ってるんじゃないですか? って言うのは自然なことだし、採点基準を統一したいは全体主義なんで流石にそれはないでしょって温情だったんでしょう。わかんないってことは全体主義って可能性高いんですよ。

素直に言えばいいと思いますよ。デートにサイゼリヤはねえだろ! そんなところに連れて行くような奴が寄ってくんな! って。

とはいえ、サイゼリヤで喜ぶような女に碌なのはいないって本気で主張してる奴がいたら、それはそれでドン引きするんですけどね。

そこは諦めていただくということで。どうぞ。