虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

サイゼリヤ好きな人には申し訳ないことだが、めちゃくちゃ嫌っている人間は実際いる

虚木零児です。

今回のサイゼリヤ騒動、新社会人という体裁の火消し記事が出てきて笑ってしまいました。素晴らしい判断だと思いますよ、ババァの古ぼけた価値観に対するカウンターには若いやつを持ってくるしかないですから。架空の新社会人にせよ、実在する新社会人にせよ、焼け死んでも何ら惜しくないですからね。

news.careerconnection.jp

サイゼリヤ事件はこれからも繰り返され続けるであろうと考えるに足る理由がしっかりと書かれています。

このテの人間はサイゼリヤで喜ぶことを期待されている」ことに居心地の悪さを覚えることができても、「店のチョイスにケチを付けて、喜ばせることを押し付けていた」ことにバツの悪さを覚えることはないんですかね。

このイラストをみても、私は「彼女」の視線の先にいるのが自分だというイメージを、リアルに思い浮かべられなかった。もし私が向かいに座っている相手なら、存在感なく彼女を見つめているだけじゃなくて、彼女と同じぐらいサイゼを楽しんでいる気がする。私なら一緒にはしゃぎたいし、一緒に楽しい空間を作りたいし、それが二人でいる醍醐味ってことじゃないの?

お前はファミレスで子供と一緒になってはしゃぎ回るのか? 少し距離をおいて暖かく見守っている家族は楽しんでないのか?

楽しみ方、あるいは楽しんでいる感情の表現方法は人それぞれ違うんですよ。彼女が満面の笑みを浮かべて喜んでくれるなら、それだけで十分楽しいんだという人もいるでしょうし、相手がドン引きするほどの奇声を出す人もいるでしょう。眼前の彼女同様に自分も同じようにはしゃぎたいならそうすればいいですが、そうしなければいけないという理由はありません。

にも関わらず、急に自分の理想のデートを万人の共通理念かのように持ち出してくるんですから最高ですよね。自分の価値観が絶対とでも思っているんじゃあないのかね。

そもそもの話をすると、対面の人物の態度は絵に描写されていません。なるほど、絵を見てみると綺麗にその瞬間がまっすぐ切り出されている。これがもし一緒になって騒ぎながら、対面に座る女性をカメラで撮ったりしたのならブレたり傾いたりした画になるでしょう。

いや、あのこれ絵なんですが。

写真はその瞬間のレンズから飛び込んできた光をそのまま記録します。一方で絵は画家が見たものを再構築している訳です。はしゃぐ人物の視点を写真のように収める必要はありません。ブレや傾きなんかを排除して*1切り出しても別に構わない訳です。

確かに問題の絵は、彼女の正面に座るであろう人物の情報が削ぎ落とされているかも知れません。絵を見ている僕らの側にいるであろう"彼"の感情や動きなどは感じ取れない。それは事実です。でも、それは”彼”が楽しんでいないことを意味しているとは思いません。ただ、描かれていないというだけのことです。

サイゼリヤで喜ぶように試されていると不快感をあらわにする一方で、自分の価値観を押し付けることを何ら恥じていないばかりか、当然のことと言わんばかりに書き記している。このテの人間を容易に排除できるサイゼリヤテストが有難がられるのも、わからんでもない。

この記事も落とし所としてはサイゼリヤで人を試すなんてひどい。という路線に舵を切っていきます。前回のブログでネタにしたとおり、まずは「『デートにサイゼリヤはねえだろ』って空気をどうにかしろ」って話なんですけど、この記事においては全く否定されないばかりか、むしろ肯定的に扱われています。

映画の後、カフェが混んでいてどこも空いていなくて、いてもたってもいられずサイゼリヤになだれ込んで映画の感想を話し込むみたいな「サイゼリヤデート」がしたい。サイゼリヤに昼から入ってドリンクバーとミラノ風ドリアを頼んで、盛り上がって気がついたら夜で、ドリンクバー1杯しか飲んでないけどバタバタ帰る、みたいなことを24になった今でもやりたくなる。

僕だったら「カフェが混んでいてどこも空いてなくて」って一文入れませんよ。

実際、この文があるおかげで余計な色がついているんですよ。

これって、本当は適当なカフェで駄弁りたかったんだが、空いてなかったから仕方なく、あるいはやむを得ず、どうしようもなくて、為す術なくてサイゼリヤに入った。って話ですよね。状況が状況だけに受け入れるしかなかっただけで、積極的にサイゼリヤを選んだわけじゃあない。座って話せるスペースが他になかったから、やむなく使ったシチュエーションを書いておいて、サイゼリヤはデートにも使えるお店ですっていう結論にはならない。どれだけ好意的に解釈しても「他のところが埋まっていたら、しゃーなしで入れないこともない」ぐらいの評価が関の山です。

結局、サイゼリヤをデートに使うなんて言語道断というポジションは崩したくはないけれども、思ったよりサイゼリヤを好きな人が多いので譲歩して出してきたのが「しゃーなしサイゼデート」なんでしょう。しゃーなしで使うようなところをいきなり使うなんてやめろというポジションは維持しつつ、サイゼでもデートはできますよねーという媚は売れています。

もし万が一、サイゼリヤはデートに使えると信じている人がいたら困るので、指摘しておきますが、こいつ、適当なカフェが空いてたら、そっち行きますからね。他に選択肢がなければ我慢できる程度です。

こいつ、どんだけサイゼリヤのこと嫌いなんだ。

本当にサイゼリヤが嫌いなんで、おそらくサイゼリヤ好きアピールであろうエピソードも上滑りしています。カフェに食べに行くまで時間があるから、サイゼリヤで辛味チキン食べちゃうとかあるよねー、って結局、サイゼリヤ自身はカフェの前座として消費してますからね。デートのときと同様、サイゼリヤはみんなで食べに行く目的地たり得ません。

ちなみに、自分がこれから食べ物を食いに行くっていうのに、チキン食べるのは自制心か計画性か、あるいはその両方がないだけで、サイゼリヤは全く関係ありません*2。マックやコンビニじゃなくてサイゼリヤを選んだことは、それらよりも高く評価している可能性を示唆しますが、結局、カフェよりも下に見ていることに変わりはありません。

頑張って記事を書いた人には残念な話なんですが、社会人一年目を肩書にしてサイゼリヤを目の敵にし、拒絶反応を示す人間がいて、そういう人を排除したいと願う人がいる限り、サイゼリヤはテストとして機能し続けます。みなさんがデートのお店選びで合格・不合格を無邪気にふるい分けていたように、ホスト側がゲストの店に対するリアクションで合否を判定しているだけのことです。

考えてみれば、お互いのためだと思うんですよね。腹のさぐりあいをしてから、サイゼリヤを出されて決裂するぐらいなら、最初からサイゼリヤのほうが時間が無駄になりません。別に他の店でもいいですががサイゼリヤはシンボルになるほどブランドが確立されているから通じが良いですよね。

なんのことはなくて、言葉の端々から「私を楽しませてくれる人じゃないと嫌」っていう狭量を発揮しながら、いざ試される立場になると居心地が悪いとか言い出す。そのくせ、本当に楽しんでいるんならこちら側にいる人間ももっとはしゃいでいるはずなんじゃないの? と価値観を押し付けることに何ら躊躇がない。人間は平等で同じ指針を取るべきと考えている人たちからしてみれば、到底許されることのないダブルスタンダードを平然と振りまきながら、他人の判断にケチをつけるのは一体何なんだ。

だいたい、何が私達のサイゼリヤだ。お前らは空いてるカフェに行くんだろうが。

*1:写真っぽく言えば補正して

*2:まさか、依存性があって食べたくなったとでも?