虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

光が多いところでは影も強くなる

虚木零児です。

実は以前からブログの記事にしようと思って、考えていたことがあるんですよ。ただ、なかなかまとまらないので、書き始められずにいました。こう、頭の中でモヤモヤとした思考はあるんだけど、一つの理論として言葉にはなっていない。そんな状況がしばらく続いていました。

そんなとき、急にこんなTweetが飛び込んできた訳ですよ。

この言葉を見て、何かが急に降りてきました。同時に曖昧だった何かが急に言葉をまとい始めたような錯覚を覚えました。

神が言っているのだ。お前はここで書く定めだったのだと。

ただ、最初に言っておきますが、今回のエントリーはいつも以上に独自研究の色合いが強い上、性的嗜好を題材としています。有り体に言うと癖の話です。

あまり直接的なことを書くと怒られるかも知れないので、今回の記事ではタイトルに合わせて性行為を"光"、NTRを"影"と表現します。""に括られていない光や影があった時は、文字通りの意味として使っているか、僕が括り忘れているかのどちらかです。文脈からご理解ください。

さて、本題に入りましょう。

古来より"光"は性愛の最高到達点とされてきたと想います。まあ、昔はそうでもなかったかもしれませんが、少なくとも現在においてはその傾向が強い。童貞がバカにされてるのは"光"という宝を得ることができない無力さを嘲笑する色合いがあるし、婚前交渉が否定的に扱われていたのもその前段階に婚姻があるべきという、序列を重視されていたからだと思うんですね。

そういう意味では、冒頭みたいな言説が出るのは当然だと思います。"光"は何物にも代えがたい尊ぶべき行為、"光"は互いの人格をたかめあう崇高な行為なんですよ。わかりますか皆さん!

まあ、冒頭に引用した人が笑ってしまったのも無理ないですね。今は"光"とかふざけた書き方してるのでそれなりに見れますが、実際はセックスですからね。セックス。セックスで互いの人格をたかめあいましょうとか言い出したら、こいつ頭湧いてんのかってなりますよね。

ただね、こんな風に"光"を人類の行いの中でも最高のものとする価値観によって、あのジャンルが生み出されたんじゃあないか。僕なんぞは思ってしまう訳です。人々が求めてやまない"光"の魅力を最大限活かして描かれる物語、それこそが"影"――いわゆる、NTRだと思うんですよね。

"影"でありがちな展開はこうです。互いに尊重しあい、思い出を作りながら、ゆっくりと愛を育みあってきた尊い関係。そこに突如として現れた間男との強く激しい"光"によってそれが瓦解する。これこそが古今東西、多くの"影"に含まれる一種の基本形と言える展開ですが、一筋の"光"によって様々なものが崩れ落ちる様は、"光"の持つ魔力をグロテスクなほどに描いています。

口先でどんな綺麗事を言ってみても、結局強い"光"には抗えないんだよなぁ! アッハッハッ!

この展開のすごいところは、本来は慈しみあって愛し合ってしか生まれないはずの、清廉潔白と言ってもいい"光"をこれ以上ないほどに汚していることです。間男の強く激しい"光"とは、いわば獣がその肉欲を満たすだけ下賤な行為、本来なら有り得べからざる愛なき"光"です。

であるにも関わらず、そのあってはならない"光"によって、本来愛の下に生まれてくるはずだった"光"はかき消えてしまいます。なぜかといえば、有り得べからざる"光"とて"光"であることには変わらず、"光"を至高とする価値観において、それは何物にも代えがたい無二の宝物だからです。

そもそも、"光"に大した価値なんてないのなら、間男の強く激しい"光"なんかで築き上げてきた関係は瓦解しないんです。心が揺れ動くこともない。でも、"影"の世界においては関係が崩壊してしまいます。この世界において強く激しい"光"は人の心を狂わせてしまうほど、多くの人がその手をのばす最高級の至宝だからなんですね。

いや、待て。そんなはずはない。そう考える人もいるでしょう。

"光"とは「互いの人格をたかめあう」ような神聖な行為だ。長い時を掛けて紡ぎ合ってきた関係が到達する到達点なんだ。そんな間男の我欲に満ちた簒奪行為、暴虐な"光"を同じように扱うとは何事か。人々が"光"に抱く神聖さ、崇高さに唾を吐きかけているも同然ではないか。

確かにおっしゃるとおりでしょう。だがしかし。いや、むしろそれ故にというべきかも知れません。人々の親愛が生み出す最高峰の珠玉が"光"であるからこそ、それを模した間男の"光"もまた人の心を狂わせる魔力を持った行いとしての説得力を持ってしまう。強く激しい愛なき"光"とて、"光"であることには変わらない。それ故に人の心を狂わせ、想いを忘れさせて肉欲の世界へといざなってしまう。

そう。"影"とは"光"の神話に対する冒涜であると同時に、"光"に対する最大の賛歌でもあるのです。

"影"の物語において、"光"は人の心を狂わせるほどの魔力を秘めています。肉欲の結実とすることで"光"の持つ権威を徹底的に汚しておきながら、その秘めたる魅力は非現実的なほど誇張されています。この世にあるべき愛によって作り上げられた"光"はあっさりとかき消えるにも関わらず、襲撃者によってもたらされた"光"は今まで積み上げられてきたすべてを破壊させるほどの威力を秘めている。

悪魔の所業と言わざるを得ない。こういう物語を好き好んで書くような輩は最後の審判の日にはしっかり苦しんでほしい。

 

とは言ってみたものの、です。

ここまで"影"という物語を際立たせてしまうのは、我々が過剰なまでに"光"を賛美してきたことが根っこにあるんじゃないか。そんな風にも思うわけです。

"光"なんて言ってしまえばたかだか生殖行為に過ぎません。だというのに、我々はそれを性愛の最高到達点とし、「互いの人格をたかめあう」だの何だのと仰々しく飾り立て、"光"という行為をさぞ崇高なもののように語ってきました。その経験のない低位階級を嘲り、罵ることで本来の生殖という本質を見えなくして、なにか崇高なものであるかのように祭り上げてきたのです。

その結果、人々は"光"が人心を惑わせる魔力を持っていると信じてしまった。その魔力への盲信は膨張し続け、結果として固く結ばれた愛の絆すらも断ち切るほどの業物と化してしまったのでしょう。つまり、"影"という一大ジャンルが産み落とされたのは偶然ではなく、必然だったのです。

そう考えると、"影"ジャンルに見かけがちな、力強く荒々しい"光"というのは、恋愛や慈愛から生まれた穏やかな"光"とは異なり、"光"そのものが持つ魔力だけを抽出するために生み出された虚像なんだろうな。なんてことを思うわけです。

いや、実際の話、人体の中でもデリケートな部分同士を激しくぶつけ合わせるなんて、考えただけでもゾッとする話じゃないですか。創作の中のファンタジーとして消費すべきものであって、現実のものとしてありがたがるようなものじゃないと思うんです。お互いにとっていいことじゃないでしょう。よくわかんないですけど。

だが、それでいい。むしろ、それがいい。

互いが互いを思い合い、高め合うような崇高な行いではなく、我欲をぶつけて、ともすれば、両方が壊れてしまいそうな暴力的かつ原始的な行いと描くことで、"光"に纏わりつくきらびやかな虚飾を剥ぎ取り、"光"という共同幻想のプリミティブな部分を浮き彫りにしたのではないか。愛だとか、絆だとか、そういう付加価値の部分をあえて削ぎ落とし、生殖器同士を接触させる"光"という行為の本質部分のみを抽出した。これこそが"影"という類型のカタルシスではないか。僕なんぞはそんなふうに考える訳です。

 

え? 別に"影"に限らずとも肉欲だけの"光"は描ける?

なるほど、おっしゃるとおりでしょう。

ただ、僕はもっと"影"の物語を読みたいと感じている。

そのことだけはわかってほしい。

それが、僕の望みです。