虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

キミは人間と機械が異なることを知っているか?

虚木零児です。お久しぶりです。

また、サイゼリヤを槍玉に挙げている人がいたのですが、今まで以上になんとも言えない気持ちになりました。

これまでってサイゼリヤという店のリーズナブルな部分と、貧困に対する差別的な精神が中心だったんですけど、今回は全く異なる視点からの難癖でしかも、それがもう現代人にあるまじき、情報技術に対する無理解からくるものなんですよね。

具体的には注文方法についての難癖なんですが……

……はい。

コンビニとかスーパーとか、小売をご利用になったことがない方でしょうか?

こんなナイーヴな神経で、ご自慢の書籍が書店や図書館ではいわゆるバーコードで管理されているなどと知ったら、憤死してしまうのではないでしょうか。それとも、生命の根幹をなす食べ物だけが許されないという考えなのでしょうか。私気になります! いや、ならない。

いずれにせよ、IoTだなんだかが持て囃される程度に生活に機械が幅を利かせている令和の時代に全く不向きな古びた価値観の持ち主であるということだけは確かです。IoTを礼賛するもののよくわかっていない政治家が阿呆と指差し笑われるように、技術に対して信仰で反骨するこちらの人物もまた莫迦として取り扱われるのは必然です。レベルとして似たようなモンなのですが、まだ肯定的な政治家は言わせとけで放置できますが、否定的で邪魔なので普通にぶん殴られているというだけのことです。

それにしても、書籍を売り出して宣伝できる程度には名の売れた人間だろうに、情報技術に関してはこの程度の理解なんだなというのが純粋な驚きではあります。Fラン大学生でももうちょっと理解していると思いますけどね。実際。

例えば、みなさんがウェブページの住所だと思っているURL(Uniform Resource Locator)の中のドメイン部分なんかを、コンピュータはIPアドレスなどに解釈し直した上で処理しています。これはつまり、みなさんがGoogle.comとして覚えているページも「142.251.42.195」でアクセスできることを意味します。暇な人はWebブラウザのアドレスバーに「142.251.42.195」と打ち込んでください。Googleにアクセスすることができたと思います*1。表面上では慣れ親しんだGoogleというWebページが急に数字の羅列で取り扱われてしまったと言ってもいい状況ですが、やはり彼はおぞましさを感じてしまうのでしょうか。

これは何が起きているかといえば、ユーザからは142.251.42.195と入力してもらえるならばそれでいいんだけど、人間は数字よりもGoogleというワードのほうが覚えやすいので、Googleという文字列で該当のページにアクセスできるようにしている。ということなんですよ。IPアドレスと呼ばれる数字の羅列とは別に、ドメインと称する文字の羅列でもアクセスできるようにしている。

小売やサイゼでは逆に、みんながワインやライスだと認識しているものに対して、何らかのコードを割り振っている。小売なんかは十数桁の数字で管理しており、安価で高速かつ、安定した挙動が可能なバーコードを使っていて、サイゼリヤは英数字で構成された短いコードを割り当てることにした、という話でしょう。

サイゼリヤの例で当てはめるなら、google.comに当たるのが赤ワインデカンタであり、142.251.42.195というのがWN01であるというだけのことですね。もちろん、実際の要請や考え方は逆な部分がある――サイトが数字管理では人間が覚えづらいので、DNSによるドメイン管理になったのに対し、小売やレストランでは商品名ではシステム管理しづらいのでコードがつけられた――のは認めつつ、落着点としては人間が管理するための名称とシステム管理するためのコードに分かれているというのは一致しています。

これを「おぞましい」などと悪し様に罵るということは、赤ワインデカンタというメニューに対し、WN01というコードなんぞを割り振ること自体に「おぞましさ」を感じていると受け取らざるを得ません。別にグラスワインや瓶ワインと区別できるのなら、赤ワインデカンタだろうが、赤ワインピッチャーだろうが、赤ワイン(容器入り)だろうが別に問題はないわけで*2、それなのに「WN01」だけは絶対にダメだというのは情緒問題以外に何があるのかという話になります。

人様が苦労して組み上げた一意管理可能なコードにケチをつけるのが人間的行いなんだとしたら、情報科学ロジスティクスに対する真っ向からの反抗であって、真正面から叩き潰されるに決まってんだろカスが、としか思いません。非人間的な管理のほうが利便性があるのなら、不便な人間的情報管理に戻すわけがないでしょうが。そもそも、システム部分には人間が絡んでこないんだから、対人間のインターフェイス以外に人間的管理を持ち込む理由がない。

ただまあ、日常的にサイゼリヤを使わない人たちにしてみれば、サイゼリヤの注文コードを把握していない我々がいきなりWN01とか言われてもわからないよねという不安があるのは理解できます。今までは写真とメニュー名称から想像がついていたのに、そういうのは頭に入っていることが前提でコードを入力しなければならない、あるいは逆に、メニュー名称に対応するコードが一致していないといけない。となると、サイゼリヤの利用には専門知識が必要という話になってしまいます。

ですから、注文を受けた店員が客の認識しやすいメニュー名称で読み上げて確認を取るのは設計として非常に理にかなってはいます。一部ユーザが疑問を覚えていますが、大衆を相手にする以上は必然だと思うんですよね。

注文システムは一般的にこういう図式に表す事ができると思います。まあ、僕もサイゼリヤ内部のオペレーションに詳しいわけではないので、想像部分が多分に含まれますが大きく外していることもないでしょう。たぶん。

さて、今回の話から考えるとサイゼリヤでは(1)の時点でコードを用紙に記入させ、店員がシステムにそのままコードを転記している(2)と考えられます。客からの注文分をシステムに覚えさせたら、システムからの応答(3)に基づいて客に確認を促し(4)、客からの同意(5)をもって注文を完了します。今回は関係ないので省きましたが、完了時点で店員からシステムへと(6)の矢印が伸びていると思いますし、システムから厨房や各所に指示が出ると思います。たぶんね。

注文のイメージ

(4)~(5)の対応の要否は意見が分かれるところだとは思いますが、(1)から(2)の間で変質がなかった――店員の入力ミスがなかった――か、あるいは(1)の段階での入力ミスが無かったか――例えば、赤ワインデカンタではなくグラスワインを頼んだつもりが、用紙にはWN01と記入していないか――についてを確認するために、(4)~(5)で確認処理を行うのは妥当です。行わない場合は上記2つの予測できるエラーは防げませんからね。

問題は(1)のラインでは「WN01」で通ったコードが(4)で客のもとに戻ってくるときには「赤ワインデカンタ」になっているのはなぜなんだ? という話です。ただ、それはシステムの設計上においてはそうなるのが、当たり前だろうなと感じます。

というのも、(4)の確認を受けた客は(1)で自分が行った注文との照合作業を行います。この際、客が注文コードと実メニューとのかみ合わせをもれなく記憶していることを期待できるでしょうか? 言い換えれば、客はWN01と言われたときに、赤ワインデカンタを頭に思い浮かべることができるかと言う話です。もちろん、ヘビーユーザであれば覚えてしまったよ、ということもあるでしょうが、サイゼリヤはヘビーユーザだけを相手にしている訳にはいきません。注文用のコードとメニューが客の中で合致しているとは当てにできない。と私ならば考えます。

この時点で「お客様が注文したのはWN01で間違いないですか?」という問い合わせを行うという方法は消えます。なぜなら、伝わらない場合に意味がないからです。

一方で、客が自分が何を頼みたかったのかを理解していない可能性はそこまで考えにくいでしょう。ミラノ風ドリアを食べたいと思っている気持ちと、ミラノ風ドリアの注文コードが何かという情報。どちらが忘れやすいかといえば後者だろうという推測ですね*3。つまり、コード注文→メニュー記載名称での確認という手順でフォローできないのは、実際に出てくる料理とコードは一致しているけども名称を覚えていない人間と、名称もコードも理解していない人間だけということになります。

多くの人間がワードのほうが覚えやすく、意味のある言葉のほうが認識し易い*4以上、ミラノ風ドリアを食べたいと認識しているが、注文コードは覚えていない客に確認をしてもらうことができる、メニュー名称での確認になるのは必然と言ってよいでしょう。

外食産業でここまで徹底できている店がどの程度あるのかという話はありますが、これに似たようなものとしてコンビニのタバコ注文などが挙げられます。

以前は同じメーカーの種類違い、グラム違いなどを詳しいとは限らない店員が客から聞いたキーワードをもとに検索していました。が、それだと同じ名称でグラム違い、味違いなどのバリエーションに弱くなってしまう訳で、それなら、絶対に把握しているはずの客に商品の検索・決定をやらせたほうが良い。

現在、各種タバコはマイセン?*5 とかの銘柄が同じであっても、組成の違いがあれば異なる一意の番号が振られるようになっています。もちろん、客としては昔みたいに「マイセンの〇〇」で通じなくなってしまった訳で、若干の対応変更は求められてしまいますが、それでもタバコの知識がなくて「マイセンの〇〇」と「マイセンの△△」が区別できない店員に間違ったタバコを押し付けられる確率は減ります。なぜなら、店員が間違ったものを持ってくるときは、自分の指定が間違っていることが大半だからです。

もちろん、客の側も完璧ではないので「マイセンの〇〇」の番号を言ったつもりが、隣りにある「マイセンの△△」だったという可能性はないので、最後に店員が客に「こちらでよろしいですか?」と確認するという作業があったほうが安心感があります。見慣れない箱だったろうにOKを出したのは客のお前だろという話です*6

このとおり、小売なんかでは着実に進められてきた置き換え作業には特に何も思うところがなかったでしょうに、今回の飲食店になった瞬間、「食べ物が番号で取り扱われるおぞましさ」とか周回遅れもいいところの話を持ち出してきた辺りに、技術への無理解、あるいは、一般化できていないんだなというのを感じます。

先程の図を再掲しますが、例えばこれがスーパーマーケットなどの小売の場合、(1)の作業というのは「客が店員に商品を手渡す」部分にあたります。(2)は「店員が商品情報をレジスタに打ち込む」作業です*7

注文のイメージ図(再掲)

つまり、客はキャベツをキャベツとして店員に渡しているけど、実際にシステムに入力されるときは割り当てられた識別コードが利用されます。その入力デバイスバーコードリーダであり、商品と識別コードは貼付されたバーコードで結び付けられているという訳です。これは逆に、実際のレジスタバーコードリーダ以外からの識別コード入力――テンキーなど――にも対応しているのなら、僕たちがバーコードを読み取って数字を把握し、その数字コードを伝えて店員に入力してもらうという手順であっても、処理できるということを意味します。実際の店で同じことしようとしたら店員に迷惑がられると思うので、絶対にしないでほしいですが、別段、サイゼリヤだけが異常なのではなく、小売などでもシステム上は識別するための専用コードによって管理をしているなんて言うのは常識だと言ってもいい。食べ物にコードが割り振られているなんておぞましい! なんて、バーコードレジスタが普及したころならいざ知らず、今更何を言ってんのこの人……という話です。

逆に言えば、今頃になって衝撃を受けたということは、実際の小売店レジスタでバーコードをスキャンされているときに、どういう処理を行っているのか少しも理解せずにただ漫然と眺めていたという証左でしょう。理系の人に声を上げてほしいも何も、理系としてはこれが処理に必要と思ってやっていることなので、知ったかぶりで処理する上での問題にも言及できないドシロウトの進言なんて聞く理由がない。むしろ、これまで処理の効率化のために技術者たちが研究してきたことに対して、ろくな根拠もなく殴りかかってしまったんだから「何もわかっていない癖に、システムに関わろうとしてくる最悪のクソ客」として外敵扱いされるのは残念ながら避けられません。

現代の技術要請からくる情報の取り扱いの変化に対応できない人間が現代思想の入門について大きな口を叩けるとは到底思えないので、現代における思想入門のつもりだったのかなあなどと考えつつ、そんな古びた思想の話をいつまでもしている人が現在を生きている人間のシステムに口を出すなんておこがましいにも程があるよなという感想を残して今回の話は終わりにしたいと思います。

*1:Webブラウザとアドレスバーの意味が理解できない人は無視してください

*2:デキャンタとピッチャーは目的が違って形状も違い、その区別のために別名がついているわけで、それをたくさん入る容器だからと乱暴にピッチャーと呼称すること自体は問題ですが、デキャンタとピッチャーを区別していない店ならこの店ではピッチャーと呼ぶんだな、で置換可能なので処理する上で支障はない。という意味です

*3:もちろん、自分が食べたいと思っていた料理の名称を注文から確認の間に忘れてしまう人間がいないとは言わないけれども、この短時間の間に注文したかったものが客の中で変質してしまったり、保持されていない点については、店側では如何ともし難いので一旦は無視します

*4:このことは先に引用したセンセの発言からも明白

*5:僕はマイセンが何なのか全くわかっていないです

*6:好きなタバコの銘柄ぐらい覚えられるもんだという前提があるので、タバコで脳破壊されて記憶できなくなるのだというのならその限りではありませんが……

*7:ルフレジの場合は(1)と(2)が同化していて、客がシステムに打ち込みます