虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

「差別」に怒る差別主義者

虚木零児です。

もう、大昔のことなんですが、某SNS処女厨が話題に上がったことがあるんですよ。具体的になんていって暴れだしたのかは忘れましたが、どうせ処女以外は人間にあらずぐらいのことを言ったんでしょう。

したらば、普段からジェンダーとかフェミニズムとか言ってるような人たちが怒るんですよ。烈火のごとく。当然ですよ。性交渉の有無で人間の価値について論ずるなんて非常識極まりない。言ったれ、言ったれ!

処女厨はモテない童貞で人間的にも終わってる奴らだ」

……争いは同じレベルの者同士でしか発生しない

一体、どんな精神構造してれば「性行為経験の多い奴はクソ」っていう言説に対して「性行為経験のない奴はクソ」っていう言動で対抗して、差別を根絶するための戦いだって言えるんでしょうか。わたし、気になります

そもそも、性行為経験が少ないほど偉い理論にせよ、多いほど偉い理論にせよ、性行為の経験数が人間的価値を決める要因である一点ではどちらも変わりません。この2つの意見で違っているのはベクトルだけ。優劣の向きが違うから対立しているだけで、根っこの部分は同じです。

処女を厚遇し、非処女を冷遇するのが差別と憤りながら、非童貞を厚遇して童貞を冷遇するのは差別ではないと言い張る。そんな人は当たり前のように処女は冷遇します。当時は自称、フェミニストの女性が「今日日、いい年して処女の奴なんて厄介なだけ」とかダイレクト差別発言をPostしており、目頭が熱くなったものです。 二度と反差別を口にするなよ、ゲスが。

 

ちなみに、その人が「差別に配慮した良表現」と大喜びしていたのが「僕はハーフじゃない。大和撫子とパリジャンのダブルなんだ」です。どのあたりが差別に配慮した表現なんでしょうか。私には全く理解できません。

人間は生物的に父と母の二人の間に生まれます。その父母の民族・異種が異なった場合は2つの民族・人種の血が半分ずつ流れている。これすなわち、ハーフである。と、まあそういった理論でハーフと呼ばれてきた訳です。一方のダブルと呼ぶ理屈は、父の民族・人種と母の民族・人種の2つの民族・人種を持ち合わせているからといったところでしょう。うーん、分数が難しかったのかな。

さて、小学生の算数で躓くことのなかった皆さんはおわかりだと思いますが、半分だったものがいきなり2倍にまでジャンプアップしています。その差、四倍。これは、どちらの理論であっても同一の民族・人種の間に生まれた子供をシングルとして取り扱っているからです。ハーフと呼ぶか、ダブルと呼ぶか論争というのは、シングルの子供を基準として、半分違う血だからハーフとするか、二種の血が混じってるからダブルとするかの違いでしかない。ベクトルですよ、ベクトル。

もし、シングルとハーフを比較してハーフが半分であるならば、ダブルとシングルを比較した時はシングルが半分になります。というか、ならなきゃおかしい。他人を半分呼ばわりするのが失礼で差別なのだと言うのであれば、二倍を自称するのも当たり前に差別にならなければいけません。なぜなら、シングルの人が半分扱いになるから。つまるところ、先の僕はダブル発言は「むしろお前たちが半分なんだ」ぐらいの傲慢な言葉でしかない。

どうして「両親の人種・民族がどうあれ僕たちは同じ人間じゃないか」ぐらいの綺麗事一つ満足に言えないのでしょうか。だいたい、そのダブル理論でクォーターのことをどう表現するつもりなんですか。後学のために教えていただきたい。

……まあ、算数すら覚束ない人に向かって祖父母の代まで遡って考えろは難し過ぎるかも知れませんね。

 

実のところ、彼らが好んで口にする「差別」とは自分の好きなモノを貶める何かを糾弾するためのレッテルでしかないんだと思います。不当であるとか、妥当であるとかいう判断すらなく、ただ気に入らない意見を「差別」にカテゴライズしているだけ。だから、自分が他者を否定するやり口が「差別」と同じロジックであっても、何ら疑念を抱かないし、良心の呵責に苛まれることもないのでしょう。

彼らのいう反「差別」とは、彼らのカテゴリで言うところの「差別」に対する反発でしかない。「性交渉のある人間を馬鹿にするのはおかしい」とか、「ハーフの人が低く見られるのはおかしい」を出発点にして、「性交渉のない人間のがむしろおかしい」とか「単一民族間でできた子供のほうが低い」という差別的言いがかりで満足してしまう。

当然、差別の撤廃などできっこありません。結局、彼ら自身が差別主義者なので性交渉の有無で人間を評価するのがおかしい、氏族・血族を見て人間を評価するのがおかしいなんて当たり前の綺麗事すら口が裂けても言えない。だって、実際に人間を評価して、下に見る理由としているから。

我々が手を取り合って生きていくために必要なのは、輪に馴染めない人間を糾弾して楽しむことではなく、彼らが輪に馴染めない原因を見つめ、その原因を生み出している自分自身の心のありようを正すことです。他者の差別的発言に怒り狂い、反発心を言葉にして紡ぎ出す前に、自身の精神を見つめ直し、差別者と同じ心理作用がないかをしっかりとチェックしなければなりません。