虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

俺たちはどこへ向かおうとするのか

虚木零児です。

相も変わらず地獄の釜に薪が焚べられ続けており、弁護士の人が必死で止めに回っていて楽しい限りです。裁判という釜の湯がグツグツ煮えたぎるのか、それとも薪を放り込んでいる人たちに延焼して大変なことになるのか。楽しく見守っていきたいと思います。個人的には後者がいいです。前者はドロかぶる可能性があるので。

さて、今回の見世物はこちら。

 正義感に暴走した人たちに振り回された経験があり、一家言ある(であろう)弁護士さんのありがたいお言葉です。

で、それにぶら下がったリプライがこれ。

この人達、絶対分かり合えないんだろうなと思うとほっこりしますね。

言わんとすることはわからんでもない。要するに「やってないことをやったことにされる辛さ」「やられたことをやられてないことにされる辛さ」の違いだと。その上でどちらに寄り添うのかと。前者で脱力できるなら後者にも脱力できるはずで、なぜ後者に寄り添おうとしないんだっていう主張ですね。

まー、なぜかと言われれば、原則に反するからじゃないですかね。

推定無罪。疑わしきは罰せず。十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ。弁護士先生の立っているポジションは明確で、法律に携わる者としてはこの原則を胸に秘めているべきだという信念があるわけです。だからこそ、女性同業者からその原則を否定するような言葉が出てきてがっくりきたのだと思います。

ここを無視して「お前は認められなくて辛かった。彼女も認められなくて辛い。そこになんの違いもありゃしねえだろうが!」みたいなことを言っても通じません。まあ、なんていうか「違うのだ!」で決着しょうね*1。ってか、ちょっと考えたらわかるでしょ。

 

  • 人間が同じ人間を裁くのに、慎重すぎることはない。だからこそ、確実に誰の目にも明らかだという状態でなければ有罪と認定しない。そのためには、たとえ真犯人を逃すのもやむを得ない。
  • 真犯人を野に放つのは許せない。だからこそ、少しでも疑われる状態であるならば有罪である。そのためには、たとえ無実の人間であろうとも罰せられるのは仕方ない。

裁判官がすべてを見通す全知全能の存在ではない以上、このどちらかのスタンスを取らざるを得ず、どちらのスタンスに賛成するかに焦点が絞られる訳です。今回の件に関して言えば、弁護士先生は前者のスタンスでしょう。私も前者であるべきだと感じます。

2017年、ジャニーズチケットにまつわる詐欺事件にて専門学校生が徳島県警察に逮捕されました。簡単な経緯は下記の記事にてご確認ください。

www.itmedia.co.jp

実際問題、金銭的な被害を被った二人にしてみれば、口座にお金を振り込んだのに約束のチケットが送られてこないのは紛れもない事実であり、これを犯罪と言わずして何というのかという話ではあります。今でこそ、我々は事件の全体像を知っているので専門学校生も犯人に利用された被害者の一人であることがわかりますが、当時の彼女らにはそれを知る術はなく、また、彼女らの訴えを受けた警察も同様だったでしょう。

しかしながら、「疑わしきは罰せず」の原則に従うのであれば、専門学校生の言う「チケットを取引相手に送付した」の証言は検証の必要があります。専門学校生はチケットを餌にして金銭をだまし取ろうとしたことを証明する必要があり、送付した証言が苦し紛れの嘘であることを証明しなければなりません。チケットを送付したかも知れないし、していないかも知れない状態では被告人の有利になりますからね。

実際に検証していれば……後はご存知のとおりですね。専門学校生は取引相手から指定された送付先に送っていることが判明。ならばと、受け取った人間にヒアリングしてみるとどうも専門学校生以外の人物と取引していることがわかり、そこを追求していくと被害者二人に専門学校生への入金を指示しながら、チケット自体は別の人間に送付させた人物――すなわち、犯人にぶち当たったことでしょう。

まあ、この件ではそうはならず、専門学校生が自ずから身の潔白を証明し、それを受けて初めて捜査が進展し、なんとかすべてが解決したというのが実態だし、故に警察の杜撰さが浮き彫りになって大騒ぎした記憶があります。

真犯人を逃してはならない。無辜の人物を裁いてはならない。どちらの理念にも理解できるところはありますが、その双方を満たさない事件――真犯人を取り逃し、無辜の人物が裁かれそうになった事件があったことは忘れてはなりません。そして、その時に無辜の人間を救うことができたのは「疑わしきは罰せず」の理念なのか、それとも「疑わしい人物は罰する」理念なのか。

あなたにはどう見えるでしょうか。

*1:実際は双方ともにこんな言い方はしないでしょうが