虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

その発想はなかった。そもそも、いらなかった

虚木零児です。

学がありません。気がつけば努力というものを忌み嫌う性分でした。勉学なんてものは足蹴にしてきましたし、運動に打ち込んできた記憶もありません。その所為か、今はそれなりに苦労しています。そういうものですね。

まあ、世の中にはそれ以上にやべえ奴がいるっていう話です。

表に書いてあることが読めるっていうのは大変すごいことだと思います。識字率の低い国があるなか、書いてあることが理解できるっていうのはすごい。確かに年収1400万円超えてからは男性の家事育児の割合が0になってます。

それはそれとして、この表は何なんでしょうか。注2を見てみましょう。

主婦合計の家事・育児時間を69時間(総務省統計局H23社会生活基本調査)とし、妻の機会費用を1時間あたり1,383円(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」2011年女性の平均時給)とした場合、「妻がもらうべき給与相当額」が「夫の手取り収入の半分」と釣り合うための夫の家事育児分担割合を0.5%刻みで試算。

はい。……はい?

一般的な用語については下記の通りであると理解しましょう。

  • 機会費用:ある行動(今回は家事・育児)を取ったことにより生じる損失
  • 税込年収:総収入から税金や社会保険料が引かれる前の金額
  • 手取り収入:収入から税金や社会保険料が引かれた後の金額

まあ、大きくハズレてはいないと思います。

問題は唐突に出てきた「妻がもらうべき給与相当額」です。事前に妻の機会費用を1時間あたり1383円としているので、かけることの家事育児時間かと思いました。しかし、年収200万の行を見ると、妻の家事育児が40.7となっています。時給1383円で週40時間――8時間×5日と同じぐらい――働いて、年収200万の夫の手取り収入の半分ってことはありえません。そこから夫の年収が100万分増加して300万になると、週時間が3.8時間増加しますが、増加した100万――その半分の50万――に対し、機会費用×家事育児時間で割り出す妻側がもらうべき給与相当額(仮)は25万円しか増えません。どういう計算なんだこれ。

計算が正しいとしても今度は夫の収入が実績であるのに対し、妻の想定収入が根拠らしい根拠のない平均値であることが気になります。機会費用という単語を使った以上、家事育児がなければ本来得られるはずだった賃金が「妻がもらうべき給与」なのだろうことはほぼ確実なのですが、であるならば、妻の側も実績値を用いなければあまり現実的とは言えません。夫がフルタイム労働で年収200万円であれば、時給換算で1100円を下回るレベルです。本当に妻が女性平均時給分稼げるのなら主たる収入源は妻が担うほうが効率が良いはずです。にも関わらず、自身を専業主婦として置いておくのは、「絶対に世帯の収入源にならない」という確固たる意思の現れなのでしょうか。

そもそも、家事育児は金銭を生みません。家政婦やベビーシッターなどの例を見れば労働として成立することは明らかですが、家庭内には雇用主がいません。今回の場合は強いて言えば夫が雇用主で、妻が労働者として家事育児に従事しているという考え方なのかも知れません*1。貰える給与の額が低いから相応の働きしかしない、というのは労働者として当然のあり方ではあります。しかし、その結果、夫が家事育児に時間を割いてしまうと、世帯単位で見た場合、資金獲得能力がある労働力をお金を産まない作業に従事させていることを意味します。単純に夫婦二人の時間を効率よく金銭に変換していくだけなら、時給の高い方が変換するのが正解であり、時給の低い方はそれを補佐するために家事なり育児なりといった部分を担うのが良いという話になります。世帯の経営という観点からいくと、たとえ低い方が辛くても、退屈でも、弱音を吐こうとも、高効率側を労働に従事させて変換していくのが正義となってしまいます。

さらには、この表には時間の概念が中途半端にしか含まれていません。極端な例を言えば、夫が特殊な事業者で在宅勤務で1時間程度の実作業で年収3000万円、妻が別企業の労働者として残業込で年収1400万円とした時、家事育児の割合はどうするべきだと思いますか。あの表に従うと、注1で記載された【夫婦共働きの場合は、左表「夫の税込年収」を「夫婦の税込年収の差額」と読み替える。】ことになりますので、1400万以上の差がある為、妻が全時間担うのがフェアということになります。逆もまた然りで、毎日朝8時から夜12時まで働いても年収が400万円しかいかない夫であっても、週あたり22時間分の家事育児従事がフェアということになります。とてもそうは思えませんが。

もっと言えば、何をどう読んだら家事育児が無償労働になったのかがわかりません。年収200万円で労働に従事していない構成員がいる世帯が、家事育児を外部委託すれば収支が赤字になるのは必定です。金銭によって報われない労働を忌み嫌うのも結構ですが、その結果、得た以上の金銭を支出するのでは意味がありません。そういう意味では人を雇えば1時間あたり2、3000円吹っ飛ぶ家事を自前でこなすことは時給2、3000円相当の労働と等価とも言えます。無償労働とは何なのか。

とはいえ、この場合であっても、キャッシュアウトを抑えただけなので、キャッシュインが増えなければ世帯収入は拡大しませんから、家事の報酬が2、3000円が貰えて然るべき。とはなりません。家事育児が夫婦ふたりで考えるべきことなのと同様に、世帯のキャッシュフローも夫婦ふたりで考えるべきものであり、不要なアウトを抑えるのは世帯の構成員としては当然であるべきです。夫の外食が無駄だ、という話をするのであれば、自分の食事も必要な栄養素を最小限の出費で摂取する努力を施すべきだという話になっていきます。毎日同じようなメニューが続く可能性もあるでしょう。

こんな生き方で本当に楽しいのでしょうか。人間はキャッシュを手に入れたり、吐き出したりする為だけに存在している訳ではなく、金銭の流入の最大化と流出の最小化が人生でもありません。もっと多種多様な価値観の中で、それらを支える金銭が必要になるというのが順序であり、全てを金銭という物差しで測って比較することにどれほどの意味があるのでしょう。自分のお小遣いでパパの一日を買おうとする子供も、病気の妻のためにする欠勤も機会費用という観点から見れば労働時間1日分の損失に換算されて終わりです。我々が目指しているのはそういう生き方でいいのでしょうか。

下手な抽象化は問題を解決には導きませんし、関係者すべてを不幸にするなあというのが正直な感想であります。

*1:そもそも、出典からして「逃げ恥から見る」という書き方ですし