虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

誰もお前に興味はなく、自分自身だけを愛している

虚木零児です。

人権派ジャーナリストの性的暴行が表沙汰になり、それに纏わる立ち居振る舞いが取りざたされる中、界隈は暴行した大学生の5回も不起訴になったことに疑問を呈していました。権威を笠に着る女性に暴行していた人に強く抗議することと、加害者と被害者の間で成立した示談に意義を申し立てること。どちらが重要なのでしょうか。どちらも重要なのではないでしょうか。

こういう話をすると意識の高い感じの人達は決まってこう言います。

「自身の興味、問題意識は他人に指図されるものではない。自身が重要であるという問題だけ議題にすればよく、それ以外の雑音は無視して良い」

人間の話は難しくてよくわかりません。

人間の使えるリソースというのは限られているので、手広く問題に関わってどれもこれも中途半端になるよりは、一つのことに専念するというのは正しいでしょう。「だから、私は示談成立の話にコミットするんだ」というのは個人の自由です。

私が気になるのは「まがりになりにも被害者が取り下げの決断をした示談事件と、泣き寝入りしていた被害者が社会の潮目の変化でようやく表に出てきた事件のどちらの闇が深いのだろう」という点です。この県に関して言えば、示談により被害者救済が進むのだという弁護士の論に対して「なんの圧力もなく被害者が取り下げるはずがない」という反論を見ました。金銭で保証することにより被害届けを取り下げてもらう、あるいは、反社会的な恫喝で被害者の口を封じに走った。とかそういうストーリーを想像しているのでしょうか。なるほど。まだ被害者が納得の上で取り下げたであろう前者ならばまだしも、後者であるならば到底看過できるものではありません。

しかしながら、それは件のジャーナリストでも同様のことが言えます。今の今まで表沙汰にできなかった、あるいはならなかったというのは一体どういうからくりなのでしょうか。示談交渉何かとは比較にならない、尋常ならざる圧力がかかっていたのではと邪推してしまうのは私だけでしょうか。

この2つを並べて、それでもあえて示談が成立した事件を重要視するのはなぜなのかという話です。まさか大学生は叩いていい人だから、なんて理由ではないと思いますが。

 

別段この話に限った話ではなく、大層な問題意識とやらを社会に提示する割には、別方面からの問題提示に対しては「それは私の関係する範疇ではない」けんもほろろに突っ返す案件は度々見られます。例えば社会における女性の弱さを喧伝する一方で、男性側の苦しみに対しては「私たちはお前らのママじゃない」と返してしまう人、いますよね。「自分たちは苦しむ男性のママではないから世話をする義理などないのだ」とやってしまえば、多くの人たちから「俺はお前らのパパでもママでもないのだから、頼みを聞いてやる義理などないのだ」とやり返されるであろうことは想像に難くありません。なぜこんなバカげたことをするのでしょう。

つい最近も自称、フェミニストを名乗ったことなどない人(しかしながら、フェミニストとして振る舞ってきた過去のある人)が一ヶ月前に感銘を受けた映画のことを褒めようとしてギロチンにかけられているのを見ました。自由を求めて亡命した監督の映画を例に上げて「規制があるから名作が生まれる」とか放言したので、映画のファンや監督のファンから袋叩きに合うのは仕方のないことだと思うんですよ。超えちゃいけないラインってのを考えてほしい。

それに対する言い訳が「映画マニアじゃないから間違えたことを書いたかも知れないけど、それをネチネチ言われて気分が悪い」だそうです。

平素、政治的正しさを盾に他人を吊し上げてきた人が「ちょっと間違えたぐらいで大袈裟なリアクションをやめろ」って他人に言うのすごいなって思います。生きてて恥ずかしくなったりしないんですね。

まあ、この手の人達の話口からは基本的に自分が属するグループが最も虐げられていて、他の何を差し置いても救済されるべきなんだって考えている気風を感じるので、こういう反応になるのも無理からぬことなのかなとは思います。以前、鉄道会社が「電車内での化粧をやめよう」とか「ドアの前に立つのは出入りする人の邪魔になるのでやめよう」とか「そんなことも言われんとわからんか」みたいなキャンペーンに対して「そんなことより痴漢について掲示すべき」みたいな話をしてましたからね*1

けど、この記事の冒頭でも出てきた通り「その時、その時でどの問題にコミットするかは各個人の選択の自由だ」って話もするんですよ。おかしな話じゃないですか。コミットする問題を鉄道会社が決定した結果、お前らの優先順位が落ちた*2だけなのに、なんでキレてんですか。あなた方が他の問題よりも痴漢犯罪を重要視しているのと同様に、鉄道会社は満員電車を知らないオノボリさんや他人の迷惑を顧みない外道共が電車内でフリーダムな行動に出ている状況を問題視しているだけって話です。

社会にはいろんな問題が積載していて、そのどれもが解決のために多くの人間の力が必要で、人々は力を振り分けて行かねばならないわけですが、そのためには人々の間で団結が必要であり、断固とした意思が必要です。自分がコミットしたくないからと、別の問題を蔑ろにしているうちはいかなる問題も解決はしないでしょう。

そんなことを私なんぞは思うわけです。

*1:なお、わざわざキャンペーンしないだけで、少なくとも都市部の鉄道会社は恒常的に痴漢に対する警告掲示をしています

*2:鉄道会社は引き続き痴漢対策はやってるので、厳密には「落ちたように見えた」が正しい