虚木零児の仮説置き場

虚木零児が他人の行動に仮説を立てるブログ

いじめられる奴には理由がある

虚木零児です。

どうして「いじめ」はなくならないのでしょうか。我々が人間である限り、いじめからは逃れることはできないのでしょうか。

www.dailyshincho.jp

デイリー新潮は何回村八分のネタで記事を書くんだという気がしますが、それを自発的にリンクして「数多くの村八分が……」と言いながら、実際は大分と山梨の事件を繰り返し書いてるだけというのが透けて見えるのは本当に面白いと思いました。まあ、一年足らずでそう何個も何個も村八分の事例が増えても困るので、その二件をいつまでも引っ張らないといけないというのは、素晴らしいことなのかも知れません。

「そうか、村八分の被害者になった人はいないんだ……」的な意味で。

記事を見る限り、村八分が起きている現場では現代社会の仕組みには取り入れられなかった要素が幅を効かせていて、それらにふるい落とされた人が八分られているといった様相が感じ取れます。ムラなんて碌なもんじゃないという俺の信念がガッチガッチと強固になっていく音がしますね。

どのパターンを見ても、村という閉鎖社会内の規則――例えば年功序列だとか、自治会への所属であるとかの違反がトリガーになっているらしいところを見ていると、やっぱり「いじめられる側に理由はない」という言説は誤解の元だよなという気持ちが強くなっていきます。大なり小なり、いじめられる側には理由があるものです。

「だからっていじめていい理由にはならない!」って憤る声を上げている方もいらっしゃるかと思いますが、まったくもってその通りだと思います。年が若いことを理由に話をまともに取り合わないだとか、特定人物と仲が良くて妬ましいから嫌がらせをするだとか、空気がよめない言動を繰り返していて鬱陶しいからぶん殴って黙らせるだとか。何かを理由に誰かを暴力や暴言などで排除しようとするのは許されません。そこは同意します。

私が同意していないのは「いじめられる側に非がない」という言葉です。いじめを抑止する為の言葉としてはあまりにも弱すぎる。「いじめられる側に非がない」では暗黙のうちに「非がある奴はいじめられても仕方ない」という部分が認められてしまう。たとえ、いじめの被害者に何らかの落ち度があったとしても、それを理由に私的な制裁を加えたり、人権を剥奪したり、バカにしたりという行為をしてはいけません。「非がない人をいじめてはいけない」のではなく「いかなる理由があれ、"いじめ"という手段を用いてはならない」のです。

……まあ、「いじめられる側に理由はない」という言葉がここまで広く浸透していったのは、実際問題「理由のある奴はいかなる手段でも排除していい」という思想と衝突しないからだろうなとも思う訳です。

ゲームばっかりしてる運動不足の引きこもり野郎が大変なことになるっていうのは身をもって知っている*1ので、ゲームばかりしていないで身体を動かそうよという話も理解できる。人が使える時間は限られていて、その限られた時間をゲームに費やすと、運動の時間が取れなくなってしまうのも道理ですので、ゲームが否定的な扱いを受けるのもわからなくはない。

でも、だからって「"まだ"、ゲーム"なんて"してるの?」って笑いながら言われたら、イラッとくるのもまた事実なんですよね。

togetter.com

「まだ」ってなんだ。「ゲームなんて」ってなんだ。なんでお前らは嗤いながら俺を見下ろしてるんだ。俺が好きでやってきたことはそんなにも惨めか。面白いか。

俺の被害妄想は別にしても、ゲームプレイヤーが千葉こどもの国ユーザーから見て下側にいて見下される立場の存在として描写されていることは間違いない事実であり、それがたとえゲームに夢中になっている子供に対する視線であったとしても、そのまま大きくなってきた我々みたいな存在が面白くないと感じるのも道理だと思うのです。意図的にやっていたのなら「いじめ」だし、無意識にやっていたとしても性格か頭のどちらかは悪いんでしょうねというお話であります。

まあ、今日日ゲーム続けてる奴なんてそうやって蔑みの目を受けて生きてきた連中も多いので、今更ショックで固まったりはしないし、なんなら「これwなんてwディストピア?」ぐらいdisり返しぐらいはするでしょうが。

というか、よく見れば高知でムササビに回線かじられてる人の文法ですからね。どうせ乗るなら勝ち馬の尻に乗るべきだと思いますけども。

(こういうこと言ってるから社会に馴染めないんだろうか)と思いながら、(でもまあ、この辺りの感情を捻じ曲げてまで社会に馴染むのもゴメンだな)という意識もありつつ、それらをないまぜになりながら今日も生きていくのです。

*1:駅の階段で息切れするようになった